日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第54 古事記はどうなっているか


日本書紀第8段第6の一書と古事記を比較検討する

 日本書紀第8段第6の一書の叙述は,古来の日本神話を忠実に伝えていることがわかった。

 本来の伝承は,出雲とオオナムチの偉大さを伝える,前記した@,Aだけだった。そこに,出雲を貶めるBが付け加えられた。

 これに対し,時系列に従って,B,@,Aの順に整理されている古事記は,悪意のソフィスティケイトなのだった。

 ここで,古事記の,第8段第6の一書に相当する部分,いわゆる「スクナヒコナと国作り」の場面を検討してみよう。


スクナヒコナとの国作りエピソードは叙述の流れを無視してねじ込まれている

 古事記の,いわゆる「スクナヒコナと国作り」神話自体の,構成上の大問題は,すでに述べた。

@ 稲羽の素兎
A 八十神の迫害
B 根の国訪問
C 沼河比賣求婚      ←(色好みの王朝歌物語。)
D スセリヒメの嫉妬    ←(同上。)
E オオクニヌシの神裔   ←(ここで王朝物語は終わるはず。)
F スクナヒコナと国作り  ←(国作りの繰り返し?)
G オオトシの神裔     ←(適当につっこんだ?)

 オオクニヌシの王朝物語としては,「E オオクニヌシの神裔」を語り,子孫繁栄して,メデタシメデタシで終わるはずである。ところが,そのあとに,「F スクナヒコナと国作り」が,繰り返しのようにくっついている。

 この,構成上のおかしさ。

 しかもその付け足しの話で,カミムスヒの子スクナヒコナが作った国を,アマテラスとタカミムスヒの命令で侵略するという,神話構成上の大矛盾が,真っ正面から打ち出されてしまった。


スクナヒコナと国づくりの冒頭は唐突である(「故」はどこを受けるのか)

 しつこいようだが,もう一度検討しておこう。

 スクナヒコナとの国作りエピソード(F)の冒頭を読んでみてほしい。

 「故(かれ),オオクニヌシ,出雲の御大(みほ)の御前(みさき)に坐す時」と始まっている。

 「故」とは,それまでの叙述のどこを受けているのだろうか。さっぱりわからない。

 直前にあるのは,オオクニヌシの神裔の羅列だ。話がつながっていない。


古事記の構成の復習

 古事記は,スサノヲが出雲の須賀の宮を作り,「宮の首」を任命してその宮に「坐しき」というところで,その神裔の話に移っていく。

 そこでオオクニヌシが登場し,その異名,「大穴牟遲神」,「葦原色許男神」,「八千矛神」,「宇都志国玉神」が羅列されたうえで,稲羽の素兎等のお伽噺が展開され,その異名の由縁が語られる。

 それは,若き日の英雄オオクニヌシが,通過儀礼を経て真の英雄になり,根国のスサノヲのすべてを奪って逃走し,スサノヲから荒々しい祝福を受けて葦原中国を平定したという物語だった。

 高志の沼河比賣への夜這いや正妻スセリヒメの嫉妬の話が,歌物語として展開され,最後は,オオクニヌシの神裔が語られて完結するはずだった。


国づくり神話の重複である

 オオクニヌシは,八十神を征伐して「始めて国を作りたまひき」と言われた神なのだ。

 古事記ライターは,日本書紀編纂者とは異なり,神武天皇ではなくオオクニヌシこそを,最初の建国者だと考えている。

 だからこそ,出雲神話を冷遇する日本書紀とは異なり,オオクニヌシの王朝物語を,お伽噺を交えて展開したのだ。

 だから,いまさらFとGを挿入する必要はないはずだ。

 お話は,Eで完結している。ここから,国譲りという名の侵略に入っていけばよいはずだ。

 ここには,明らかに,構成上の誤りがある。


オオトシの神裔の羅列もまた唐突である(「故」はどこを受けるのか)

 その理由を考えるには,これに続いて突っ込まれている,オオトシの神裔を検討する必要がある。

 オオトシの神裔もまた,「故(かれ),そのオオトシ」として始まっている。

 古事記を何度も読んだ人でも,なぜここでオオトシが,「故,その」で導き出されるのか,まったくわからないのではなかろうか。

 しかし,スサノヲが出雲に降って宮を作った場面をよく読み返すと,きちんとオオトシが記されている。
 オオトシは,出雲に宮を作ったスサノヲが,大山津見神の娘を娶って作った子なのだ。

 クシナダヒメとの間に作った子の子孫がオオクニヌシ。これとは別系統の子孫である。

 本来ならば,スサノヲによる出雲国作りに続けて突っ込んでおけばよかったエピソードだ。
 ところが,テキストとしている岩波文庫版古事記によれば,13ページも後戻りしなければならない。

 これもまた,構成上,完璧な誤りだ。


スクナヒコナとの国作りの叙述も唐突ではないか

 従来から,これは指摘されていて,その唐突さから,オオトシの系譜は虚偽であり,その中に述べられている日枝神社や松尾大社の神を,何とか位置づけようとした作為の産物である,との学説さえある。

 そんなことまで言うならば,スクナヒコナとの国作りのエピソードも,同様に,作為の産物と言うべきである。それが,「叙述と文言」からの帰結だ。

 両者共に,「故」と始まっているのに,それ以前のどの叙述を受けているのか,さっぱりわからないのだから。

 叙述全体を実質的に検討しても,この叙述がこの位置に納まる理由がない。構成上,完璧に破綻している。

 その一方を作為だ虚偽だというならば,スクナヒコナとの国作りも虚偽ということになる。


スクナヒコナは小さいのか大きいのか

 さて,構成上の誤りは別にして,「叙述と文言」を検討していこう。

 スクナヒコナは,「天の羅摩船(かかみぶね)に乘りて,鵝の皮を内剥(うつはぎ)に剥(は)ぎて衣服にして」,やってくる。

 その「羅摩船」は,ガガイモの実が割れたものとされている。だからスクナヒコナは,小さい。一寸法師のように小さい。

 ところが,「鵝の皮」の「鵝」は,いわゆる雁の家畜化したものであり(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,94頁),ガチョウとも家鴨ともいわれる。

 その「皮」を衣服にしたなんて,どう考えたって,意味をなさない。

 だから学者さんも困って,「鵝」は「蛾」の誤写なんて言ってるが,そんなのは,もはや,窮鼠猫を噛むというたぐいの,言い逃れである。「蛾」に「皮」があるか?

 古事記の「叙述と文言」は,破綻しているのである。

 ちなみに,日本書紀第8段第6の一書でスクナヒコナが着ているのは,「鷦鷯(さざき)の羽」である。だから,理解できる。


ヒキガエルやカカシが登場する話を誰が信じるか

 しかし,スクナヒコナの名前を,誰も知らない。

 タニクク,すなわちヒキガエルは,「崩彦(ぐえひこ)」が知っていると言う。「崩彦」は案山子(かかし)だ。

 その「崩彦」は,カミムスヒの子スクナヒコナだと言う。そしてこの「崩彦」は,「今者(いま)に山田のそほど」というのだ。今にいう山田の案山子(かかし)だというのだ。

 この神は,足は動かないが,天の下のことをすべて知っている神だという。


童話や民話の類と神話は区別すべき

 一見して明らかなとおり,単なる童話,お伽噺のたぐいにすぎない。

 これは決して神話ではない。山田のかかしは何でも知っているんだよ。昔は崩彦といったんだよ。だから,スクナヒコナを知っていたんだよ。

 こういうのは,神話ではなく,民話のたぐいだ。

 こんなお話を平然と展開する古事記を,日本書紀の神話と対等に扱ってよいものだろうか。
 これはこれで,民俗学の研究対象として峻別すべきではないだろうか。

 私は,そうした疑問をもってしまう。


カミムスヒに申し上げてしまう滑稽さ(世界観の破綻)

 その山田のカカシは,「此は神産巣日神の御子,少名毘古那神ぞ。」と答える。ここから少々あやしくなってくる。

 「故ここに神産巣日の御祖(みおやの)命に白し上げたまへば」,(カミムスヒが)答へ告(の)りたまひしく,「こは實に我が子ぞ。子の中に,我が手俣(たなまた)より漏きし子ぞ」。

 ハテサテ,世界観の破綻が理解できましたか?

 国譲りという名の侵略は,まだまだ先のことだ。今は,単なる国作りの段階だ。

 いわゆる「高天原」と葦原中国は,対立した世界である。「高天原」から見れば,「悪しき神の音(こえ)は,さ蠅如(な)す皆満ち,妖悉に發りき」という世界だ。

 一方,カミムスヒは,古事記冒頭で,タカミムスヒと共に「高天原」に出現した,とってもエライ神様である。


問題点を整理する

@ そのカミムスヒに,スクナヒコナが来たことを申し上げちゃうのは変だ。山田のカカシは,国譲りという名の侵略もないのに,すでに支配されちゃっているのかな。

A よく見ると,「神産巣日の御祖(みおやの)命」なんて書いてあるぞ。葦原中国の神々は,カミムスヒが生んだのでしょうかね。だったら,対立も,国譲りという名の侵略も,天孫降臨も,みーーんなあり得ないわナ。

B よく考えると,スクナヒコナは天つ神だったっけ。確か,風土記の中で,オオナムチと一緒に国作りをしていたぞ。

C スクナヒコナはカミムスヒの子だったっけな。日本書紀第8段第6の一書は,タカミムスヒの子だとしているよ。

D なんだか,世界観がめちゃくちゃじゃないか?


学者さんの説の正体不明

 念のために言っておくと,AとCについて,「御祖(みおやの)命」と呼ばれるカミムスヒは女神であり,出雲に関与していると言う学者さんがいる(西郷信綱・古事記注釈・第3巻・筑摩書房,171頁)。

 確かに,八十神(やそがみ)に迫害され,いったん「殺された」オオクニヌシは,その母親,「御祖の命」が「天に参上(まいのぼ)りて,神産巣日之命」に頼み込み,救ってもらう。

 しかし,オオクニヌシの母親の呼称として使われている「御祖(みおやの)命」という「文言」が,カミムスヒの呼称としても使われていること自体がおかしいのであって,これを無視するわけにはいかない。

 そんなことよりも,古事記冒頭で,有無を言わさぬ世界観として登場したタカミムスヒら3神のいる「高天原」。そのうちの1神がカミムスヒであることをどう考えるのだろうか。


世界観が破綻した伝承は神話の崩壊過程を示す末期的伝承だ

 こうした世界観の破綻は,古事記の至るところに出てくる。

 私は,「高天原」お大事の思想が強固になってしまった人が,ことをせいて,乱暴に書き殴ると,こうなると思う。

 古来の神話伝承には,こんな混乱はなかったはずだ。

 世界観の混乱までやらかす伝承があることは,伝承として腐り始めている証拠である。伝承ないし,神話の世界の解体,崩壊である。

 神話の末期的症状と言ってもよい。

 私が主張するように,ヤマトで日本神話の再編成が行われたとしても,その当初に,「高天原」と葦原中国の区別もつかない,こんなにも混乱した伝承は,なかったはずだ。


伝承のグルーピングによる研究方法

 古事記のこうした伝承は,日本神話を混乱させているだけである。
 それを見極めて,伝承を読み取る必要がある。

 私は,権威的,権力的,支配的な伝承が,「高天原」と結びつき,さらにアマテラス伝承とも結びついていたと論じた。

 その延長線上にある伝承なのか。
 とにかく末期的伝承であることは確かである。それが,古事記に平気で掲載されている。

 私は,

@ 日本書紀を中心とした素朴な伝承,

A 日本書紀の一書に散見される,権威的,権力的,支配的な伝承,

B 崩壊を始めた末期的伝承,

をグルーピングして,伝承の発展過程を追究できるだろうと考えている。


古事記ライターは修理固成の命令のつもりでリライトした

 話がそれた。古事記の叙述に戻ろう。

 スクナヒコナがいると報告を受けたカミムスヒは,それは自分の子だと明かして,またまた変なことを言う。

 「汝(いまし)葦原色許男命と兄弟(あにおと)となりて,その国を作り堅めよ(かためよ)」。

 オオクニヌシは「汝」,すなわち「おまえ」呼ばわりだ。突然,権威的,権力的,支配的である。
 オオクニヌシは,すでに支配されちゃっているようである。
 しかしオオクニヌシは,まだ天つ神に降伏していない。
 なのになぜ,オオクニヌシがへりくだっているのか。

 やはり,国譲りという名の侵略も,天孫降臨も,必要ないんだ。

 そんなことよりも,「その国を作り堅めよ」なんて,どこかで聞かなかったか。

 「天つ神諸(もろもろ)の命(みこと)もちて」,イザナキとイザナミに,「この漂へる国を修め理り(つくり)固め成せ」と命令し,「天の沼矛(ぬほこ)」を与えたというくだり。

 国生みは,いわゆる「修理固成の命令」によって行われたのだった。
 古事記ライターは,修理固成の命令を頭の中におきながら,スクナヒコナとの国作りを描いている。

 古事記特有の,権威的,権力的な,支配命令の体系によって,脚色しているのだ。


古事記特有の臭みで塗り替えられている

 ここには,素朴な伝承をそのまま伝えるという態度は見られない。
 賛否はともあれ,古事記ライターの,一貫した主張で作り替えられているのだ。

 そしてその結果は,笑うべき,と言うほかない。

 カミムスヒの命令でスクナヒコナらが葦原中国を作ったのであれば,その後に国譲りという名の侵略や天孫降臨をする必要はない。葦原中国は,当初から,天つ神が支配する世界なのだから。

 ここらへんの論理性の欠除は,もう言うまい。


臭い儒教精神も鼻につく

 もうひとつ言っておこう。

 私は,「兄弟(あにおと)となりて,その国を作り堅めよ(かためよ)」という道徳観念に,再度,笑ってしまうのだ。

 日本書紀の神話には,意外にも,こうした臭さはない。

 神武紀以下,時代を降ってくると,中国の文献をもとにして美辞麗句を並べた部分に,こうした儒教精神が,ぷんぷんと臭ってはくる。

 皇位を兄と弟で譲り合った顕宗紀の叙述なども,はっきり言って臭い。

 しかし,日本書紀の本来の神話の部分(神武紀以前)では,儒教精神は希薄だ。
 むしろそこには,外来の,変に凝り固まったあれやこれやの精神論とは無縁の,澄み切った素朴ささえあるといえる。

 儒教精神による脚色は,かなり新しい人の,「賢(さか)しら」だ。日本書紀の神話こそが,日本古来の精神を伝えているのではないだろうか。

 古事記こそ,「賢(さか)しら」である。


天つ神と国つ神が兄弟になれなんてほんとかね

 カミムスヒの命令は,「故,汝(いまし)葦原色許男命と兄弟となりて,その国を作り堅(かた)めよ」というものだった。

 スクナヒコナはカミムスヒの子であり,天つ神だ。
 これに対し葦原色許男命はオオクニヌシであり,国つ神だ。

 国つ神は,タカミムスヒとアマテラスによって,「道速振る(ちはやぶる)荒振る国つ神等(ども)」と呼ばれる,敵対した神だ。
 だからこそ,国譲りという名の侵略が始まる。

 兄弟となって国を作り固めよなんて,笑っちゃう。

 兄弟になって国を作ったよ。なのになぜ侵略するの。兄弟喧嘩は避けられないのかな。


神話構成上の大矛盾

 兄弟となって国を作ったのならば,もはやそこを侵略する必要がない。葦原中国は,初めから天つ神のものだ。「高天原」と葦原中国は,初めから「義兄弟」だったのだ!。

 カミムスヒは,別天つ神5神のうち,最初に成った3神だ。古事記冒頭に登場する最高神中の最高神だ。

 だから,国譲りという名の侵略の場面で,十拳劔(とつかのつるぎ)を地面に突き立てて武力で侵略するのは,カミムスヒに対する反逆じゃなかろうか。

 国譲りという名の侵略を命令したタカミムスヒとカミムスヒは,喧嘩になっちゃったのだろうか。内紛だろうか。

 また,葦原中国は初めから国つ神オオクニヌシと天つ神スクナヒコナが義兄弟になって作った国だから,そこに天孫降臨する必要もないのではなかろうか。


称号もちゃらんぽらん

 称号も,例によってちゃらんぽらんだ。

 へりくだって,「神産巣日の御祖(みおやの)命に白し上げ」たオオクニヌシ。
 それに対するカミムスヒの返答は,「故,汝(いまし)葦原色許男命と兄弟となりて,その国を作り堅(かた)めよ」。

 オオクニヌシの別名は,「葦原色許男神」だったはずだ。ところがここでは,「葦原色許男命」となっている。

 叙述の都合で「神」を「命」に貶めてしまう節操のなさ。
 一度「葦原色許男神」として登場させたものを,「葦原色許男命」としてしまう節操のなさ。

 これまでいくつも取り上げたが,ここでもまだ,同じことをやっている。

 また,カミムスヒは,タカミムスヒらと共に,獨神となって隠れてしまったはずだった。

 隠れた神がなぜ堂々と登場するのだろうか。これでは,隠れた意味がないではないか。いったいいかなる意味で,「隠れる」という言葉を遣っているのだろうか。

 これも,何度も述べてきた疑問である。


国が完成したのに誰と一緒に作ろうかと嘆いているめちゃくちゃな内容

 おかしな叙述は,さらに続く。

 「二柱の~,相並ばして,この國を作り堅めたまひき。然(さ)て後は,その少名毘古那~は,常世國に度(わた)りましき。………ここに大國主~,愁ひて,告(の)りたまひしく,『吾(あれ)獨りして何(いか)にかよくこの國を得(え)作らむ。孰(いず)れの~と吾(あれ)と能(よ)くこの國を相作らむや。』とのりたまひき。」

 これをよーく熟読玩味してほしい。

 古事記がいかに出鱈目か。わかりますか?

 オオクニヌシとスクナヒコナは,一緒に苦労して,国作りを完成させたのだ。それが,「この國を作り堅めたまひき」だ。

 スクナヒコナは,国が完成してから,「常世國に度(わた)りましき」だったのだ。いなくなったのだ。

 ここでの接続は,「然(さ)て後(のち)は」。「然(しか)くして後(のち)は」と読むテキストもある(小学館・新編日本古典文学全集・古事記,95頁)。

 だから,国作りが完成してからスクナヒコナがいなくなったことは確かだ。

 それなのに,「吾(あれ)獨りして何(いか)にかよくこの國を得(え)作らむ。孰(いず)れの~と吾(あれ)と能(よ)くこの國を相作らむや。」と慨嘆する(オオクニヌシの慨嘆)。

 スクナヒコナは,国作りを途中で放棄して帰っちゃたのか。


「若し然らずは國成り難けむ」という「叙述と文言」

 そして,オオクニヌシの慨嘆に対し,海を照らしてやって来た神は言う。「能く我が前を治めば,吾(あれ)能く共與(とも)に相作り成さむ。若(も)し然らずは國成り難(がた)けむ」。

 「若(も)し然らずは國成り難(がた)けむ」。

 やはり,国作りは完成していないのか。
 せっかくやって来たスクナヒコナだったけれど,国が完成したと思い違いをしたまま,常世国に帰ってしまったのである。

 スクナヒコナって,いったい何のために登場したんだろう。

 私は,日本書紀第8段第6の一書を,生半可に聞きかじった痕跡だと考える。


振り返ればもっとめちゃくちゃ

 賢明な読者は,もっと凄いことを指摘できるであろう。

 オオクニヌシの国作りは,じつは,いわゆる「オオクニヌシの根国訪問」物語で終わっていた。

 八十神(やそがみ)を退治し,「始めて国を作りたまひき」となって,国作りは終わっていたはずだ。スクナヒコナの協力を得ずに,終わっていたはずだ。

 それを認めるのが,「始めて国を作りたまひき」,と「叙述」した古事記ライターの責任である。

 古事記ライターは,これに,「ヌナカワヒメやスセリヒメとの歌物語」を付け加え,色好みの王朝物語風に味付けをして,いわゆる「オオクニヌシの神裔」でオオクニヌシの子孫を語り,こうして,とこしえに栄えましたとさ,で終えるはずだった。

 ところが,「スクナヒコナとの国作り」など,国作りを蒸し返すような話を付けけ加え,書物の編纂者としてトチ狂っているとしか言いようのない編纂をしているのであった。

 以上は,すでに私が指摘したことである。

 ところがところが,その,「スクナヒコナとの国作り」の中で,オオクニヌシと一緒に苦労して,「この國を作り堅めたまひき」となったはずなのに,さらにまた,「吾(あれ)獨りして何(いか)にかよくこの國を得(え)作らむ。孰(いず)れの~と吾(あれ)と能(よ)くこの國を相作らむや。」である。


念のためにわかりやすく指摘しておく

 念のため,わかりやすく指摘しておきましょう。

 「始めて国を作りたまひき」だったのに,

    ↓

 「スクナヒコナと国作り」が始まって,「この國を作り堅めたまひき」。

    ↓

 なのに,「吾(あれ)獨りして何(いか)にかよくこの國を得(え)作らむ。孰(いず)れの~と吾(あれ)と能(よ)くこの國を相作らむや」。

である。

 これはちょっと,ひどすぎるのではなかろうか。
 古事記は,伝承を適当に切り貼りした,適当な書物ではないのか。

 私は,声を大にして言いたい。「責任者,出てこい!」。


英雄の慨嘆がわからなかった古事記ライター

 それだけではない。第8段第6の一書が描いた,三輪山鎮座の前提としての英雄の慨嘆が,内容カスカスの,しかも間違った叙述になっているのだ。

 「吾(あれ)獨りして何(いか)にかよくこの國を得(え)作らむ。孰(いず)れの~と吾(あれ)と能(よ)くこの國を相作らむや」なんて言ってるが,
ここには英雄の慨嘆がない。

 スクナヒコナがいなくなり,オオナムチは,一人で征服戦争をやり遂げた。これからは政治の時代なのに,一緒に政治をする人がいない。どうしようか。

 これが英雄の慨嘆だった。

 ところが古事記では,国作りを一緒にする人がいないので不安だという,平面的な愚痴になっている。

 武力と戦争の時代から政治の時代への転換点に立った,武神の慨嘆というモチーフは,どこかに消し飛んでしまった。

 しかもそれが,スクナヒコナとの国作り完成後のこととして語られているのだから,なんと言ってよいやら,評価しようがない。


海からやって来た神が何がなんだかわからなくなっている

 古事記もまた,海からやって来る神の話を掲載している。

 しかし,オオクニヌシの幸魂奇魂であると名乗る部分を省略してしまったので,オオクニヌシとはまったく別の神だと考えるほかない。

 古事記ライターは,オオクニヌシとはまったく別の神が海からやって来て,自分をヤマトの御諸山にいつき祭れと要求したという話にしている。

 その結果,オオクニヌシが,その正体不明の神をヤマトの御諸山に祭ったという話になっており,わけがわからなくなってしまっている。

 結果的に三輪山にオオモノヌシがいるから,この神はオオモノヌシだという学者さんもいるが(西郷信綱・古事記注釈・第3巻・筑摩書房,270頁),それはおかしい。

 だったらなぜここで,オオモノヌシと言わないのか。
 そんな伝承がなかったからだ。
 古事記が,「幸魂奇魂」伝承の改悪にすぎなかったからだ。

 では,オオクニヌシ自身はどうなったのか。

 話は戻ってスセリヒメの嫉妬の場面。

 「出雲より倭國に上り坐さむとして,束裝(よそひ)し立たす時に」,オオクニヌシは嫉妬に会う。

 ま,歌のやり取りがあって,結局,「かく歌ひて,すなはち宇伎由比(うきゆひ)して,宇那賀氣理弖(うながけりて),今に至るまで鎭(しづ)まり坐す」。

 すなわち,ヤマトへは行かずに,出雲に鎮座したというのだ。

 ということは,三輪山へは行かなかったということだ。一応,話は通ずる。


古事記ライターによる改悪

 古事記ライターは,幸魂奇魂の意味がわからなかったのだ。
 きちんとわかっていれば,こんな改悪はしない。
 日本書紀第8段第6の一書を読んで,理解できる人であれば,何も迷うことはない。

 第8段第6の一書と古事記の叙述は,おおむね同じようにみえるが,その本質はまったく異なる。

 自らの和魂奇魂が要求したのか,まったく別の神が要求したのか。読者の立場からすれば,まったく異なる解釈を迫られる。

 私には,日本書紀第8段第6の一書と比較検討すると,古事記は愚劣な作文としか思えない。

 それとも,第8段第6の一書を知っている人を前提にした,語りの文学とでも言うのだろうか。


オオクニヌシの三輪山鎮座物語がなくなっている

 得体の知れない神が,「海を光(てら)して」やって来る。その神は,自分をヤマトの御諸山にいつき祭れば,おまえと共に国を作り成すであろうと言う。

 だから古事記では,オオクニヌシの三輪山鎮座物語になっていない。

 オオクニヌシが正体不明の神を三輪山に祭ったからこそ,国作りが完成したというお話になっている。
 オオクニヌシは,そうした神を拝んで,やっと国を作ったという内容になっているのだ。

 そうではない,オオクニヌシの三輪山鎮座物語はある,と言い張る人は,日本書紀と古事記を一緒くたにする,全体的思考の人だ。

 そして,そうした頭では,古事記という文献がいかなる文献なのか,永遠に理解できないだろう。

 古事記だけを,初めて読んだ気になって読み返してほしい。


古事記はやはり駄本である

 いったいどうしたことだろう。

 私は,第8段第6の一書の,うろ覚えの結果だと思う。
 記憶に頼って,適当に書き流した結果が,これだ。古事記だ。

 古来からの神話伝承が,ぼんやりとしたものに書き換えられていく過程がここにある。

 きちんと掃除をしても,いずれ散らかっていく。
 順序立てた筋の通ったお話は,リライトするたびに内容が拡散し,曖昧になっていく。これを,「エントロピー増大の法則」という人もいる。

 小学生の出来の悪い読書感想文,書物のあらすじをなぞっただけの感想文に,こうしたのがよくある。

 この逆は,まずない。

 他の神がやって来て倭に行くよう誘ったというお話を,それはじつは自分の幸魂奇魂だったという解釈を加え,物語を書き換える作業は,なかなかできるものではない。

 古事記ライターは,決して,天才でも秀才でもない。


古事記の出鱈目さ

 以上,長々と述べてきた。

 この部分を読むだけでも,古事記は駄作だと判断できる。

 古事記ライターの頭の中は,国譲りという名の侵略も何も,すべてがトンデいる。何があっても権威的,権力的,支配的な「高天原」の神々が支配しているという,構成を無視した思い込みがあるだけだ。

 この伝承は,神話が腐って,崩壊していく末期的症状を呈している。


スクナヒコナはなぜ失踪するのか

 ここまで考えてくると,スクナヒコナが,突然失踪する理由もわかる。

 失踪せずに最後までいてもらっては困るのだ。

 スクナヒコナがオオクニヌシと共に葦原中国を統治していると,そこにタカミムスヒの命令で建御雷神らが武力侵略することになってしまうから,大矛盾をきたすのだ。

 日本書紀第8段第6の一書では単なる矛盾だが,古事記では,「高天原」の神々の内紛になってしまう。


スクナヒコナはなぜ常世国に行くのか

 どこへ失踪するのだろうか。

 片づけられ,祓われた者が行くのが根の堅州国だった。

 しかしスクナヒコナは,スサノヲと似ているようでいて,そうではない。根本的な違いは,祓われた厄介者ではないことだ。

 しかも,古事記によれば,カミムスヒの子という由緒正しい血筋がある。そして何よりも,前述したとおり朝鮮出身の神であり,海からやってきた神なのだろう。

 だから,海の遙か彼方の常住不変の世界,常世国へ戻っていくしかないのだ。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 「初版」 はこちら



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