日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第4 世界観と世界の生成


日本神話は本当に神話なのか

 神話を名乗るのであれば,この世界や人間が,いつどのように発生したのか,天と地と太陽と月と星が,いつどのようにできたのかを語るべきである。

 そして,我々がなぜこの世界にいるのかを語ってこそ,神話である。

 しかし,日本書紀も古事記も,人間の発生については何も語ろうとしない。

 だから日本神話は,庶民を含めた人口に膾炙した,という意味での神話ではない。

 日本神話は,あくまでも,権力者が語った,権力者のための世界生成神話である。


古事記冒頭は唐突である

 ところで,古事記本文冒頭は,いきなり,「天地」が開けたとき,「高天原」に,アメノミナカヌシ(天之御中主神),タカミムスヒ(高御座巣日神),カミムスヒ(神産巣日神)が生成したという。

 いきなり,唐突である。

 古事記は,この「高天原」世界観を,本文冒頭にバーンともってきて,日本神話を語り始めるという体裁になっている。

 ここに,世の学者さんたちが,「高天原」,「高天原」と言う根拠がある。そして,学者さんであればあるほど,いわゆる「高天原」神話を体系化しようとしている。

 なぜこのような3神が生じたのかは,まったくわからない。古事記ライターは,何も説明しようとしない。
 無前提の大前提なのだ。

 そしてこれら3神は,「獨神(ひとりがみ)」となって身を「隱した」としている。


高天原とタカミムスヒら3神という世界観は特異でマイナーな異伝である

 しかし,この「高天原」と,そこにいる3神という世界観は,日本書紀では,ごくごくマイナーな異伝であり,まともに扱われていない。

 周知のように,日本書紀神代の巻(巻第1,巻第2)は,第1段から第11段までの本文を軸として,それぞれに,異伝である「一書(あるふみ)」が羅列されている。本文の次に,「一書に曰(い)はく」として始まる。

 本文の補足にすぎない短いものから,本文以上のボリュームをもつものまで,さまざまであり,内容も,本文と矛盾するもの,本文そっちのけで全く違う内容のものまで,バラエティーに富んでいる。

 公権的公定解釈である本文だけでなく,このような異伝をも整理して残したからこそ,日本書紀は信頼できる。日本書紀編纂者は,まさに学者的態度で,日本神話を編纂したのだ。

 その日本書紀編纂者は,「高天原」と上記3神を,日本書紀第1段第4の一書のなかで,「又曰はく(またいわく)」と続けて紹介しているにすぎない。

 第1段第4の一書という異伝の中の,さらなる異伝。
 異伝中の異伝として紹介しているにすぎないのだ。

 そしてその分量も,岩波文庫版日本古典文学大系本の行数でいえば,たかだか2行足らずでしかない。


日本書紀は「高天原」神話を採用していない

 だからこそ日本書紀本文は,「高天原」という用語を使っていない。

 日本書紀「本文」では,「高天原」に相当するところは,すべて「天」ないし「天上」となっている。

 第6段本文で「高天原」が出てくるが,著名な古事記学者である神野志隆光は,これすらも,テキスト自体に問題があり,本来は「高天」だったのではないかと指摘している(神野志隆光・古事記・174頁・日本放送出版協会)。

 そして,「高天原」にいるとされるタカミムスヒも,日本書紀ではまともに扱われていない。これは,あとでたっぷり検証する。

 今,簡単に指摘しておくと,国譲りという名の侵略と天孫降臨を語る第9段に至って,突然,命令者として登場するだけだ。

 それまでタカミムスヒは,まったく無視されていると言っても過言ではない。


いわゆる「高天原」神話は本当にあったのか

 だから,日本神話を語るときに,「高天原神話」という言葉を安易に使ってはいけない。これは,古事記だけに通用する用語である。

 この点の認識がいい加減であると,日本神話には,「高天原神話」と「出雲神話」と「日向神話」があると主張することになる。

 しかし,そんな人は,日本書紀の神話をきちんと読んでいない。
 日本書紀と古事記の違いどころか,日本書紀本文と,異伝である一書との違いさえもわかっていない。

 すなわち,ぼんやりとものを考える,「全体的思考」の人である。

 ただ,以後の用語としては,アマテラスやタカミムスヒがいる天,という意味で,いわゆる「高天原」神話と呼んでおこう。


古事記を読んで日本神話や日本精神を語るのは間違っている

 日本書紀編纂者は,「天皇」の称号と,「日本」という国号を採用した,律令国家黎明期に生きた。「日本国」建国の世に生きた。

 そして,律令国家を背負って,律令とともに車の両輪となるはずの,「日本国」の歴史を編纂した。その歴史の冒頭に,歴史時代以前の神話の時代を置いた。

 その神話の叙述には,古事記が採用する「高天原」と,そこにいるアメノミナカヌシ,タカミムスヒ,カミムスヒの3神という神話を,採用しなかった。

 採用しないどころか,極めてマイナーな異伝中の異伝として,歯牙にもかけなかったのである。

 このように,古事記が採用する,「高天原」とそこにいる3神という神話は,「日本」国号が採用され「天皇」号が採用されて建国された,「日本」という国が,当時,まったく無視した神話なのである。

 だから,古事記を読んで日本神話や日本精神を語るのは,間違っていると言ってよい。
 草創期の「日本」という国家自身が,否定しているのだから。


なぜ古事記が尊重されているのか

 では,なぜ古事記が尊重されているのだろう。

 その理由は,単に,712年に作られた最古の文献だというだけではないのか。

 しかしそれは,古事記本文の内容を保証することにはならない。もしかしたら,最古の文献が,じつは駄本だったということもあり得る。

 古事記序文に,天武天皇の勅命と,序文自身が天才的と自画自賛する「稗田阿禮(ひえだのあれ)」が,登場するからであろうか。

 しかし,これから古事記本文を検討するとおり,天才「稗田阿禮」にしては,情けない,非論理的な文章になっていないか。

 一方,三浦佑之氏が最近(2007年春)になって表明したとおり,昔から,古事記序文偽書説が絶えないのも事実なのである(「古事記のひみつ」,吉川弘文館。「増補改訂版・古事記成立考」大和岩雄著・大和書房など)。

 これが正しければ,もはや古事記の権威はなくなる。
 稗田阿禮の栄光や天才も消える。
 天武天皇の権威や元明天皇の権威も消える。

 残るのは,ある1つの文献としての,裸の古事記本文だけである。
 そして,その内容自体の誠実性や論理性が,自由闊達に問われることになる。

 この「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」は,古事記序文偽書説という,自らの土俵を狭めるような,ある意味で歪んだ議論に留まることなく,古事記本文を真正面から吟味してみようという試みである。


古事記冒頭から高天原と天が矛盾している

 話を古事記冒頭に戻そう。

 この,古事記冒頭における「高天原」の設定は,論理矛盾である。

 いきなり「天地初めて發けし時,高天原に成れる神」とある。「天地」が開ければ,「天」と「地」になるだけのことだ。それ以外が生ずるわけがない。ギリシャ神話も,確か,シンプルに天と地に別れただけだった。

 ところが,「天」と「地」が別れて,別に「高天原」ができたというのだ。

 まったく,意味がわからない。
 じつは,もっとわからなくなる。

 というのも,このちょっと後に,「アメノトコタチ(天之常立神)」が生まれてくるからだ。アメノトコタチは,「天之常立」。すなわち「天」を支える根源神だ。「高天原」之常立ではない。

 古事記本文冒頭数行で,大々的に「天」が生じたと宣言するくせに,「天」を支える根源神が,あとから生まれたというのは,これいかに。

 そして,「天」とは別に生まれた「高天原」は,それを支える根源神がいなかったのでしょうか。「高天原之常立神」が,なぜいないのでしょうか。

 ここに,「天」の神話(日本書紀本文)と,「高天原」の神話(日本書紀第1段第4の一書のさらなる異伝)との混在,ごっちゃ煮を嗅ぎ取るのは,私だけでしょうか。


決して「天」=「高天原」ではない

 古来,いろいろ理屈があるようだが,矛盾の解決としては,「天」=「高天原」と解釈するしかない。たとえば,同じものを「高天原」と言い換えたにすぎないという学説である。

 しかしそれは,自らの非論理性を告白するようなものであり,恥ずかしい行為である。

 まず,文言自体が違う。

 「天」と「高天原」は,明らかに違う言葉である。これを同じと主張するならば,古代社会の人々が,天上界を「天」とも「高天原」とも言っており,同じものを指していたという事実を論証しなければならないだろう。

 上記事実の論証がすべてである。これができなければ,実証性のない観念論,古事記読みの書紀知らず,後付けの「日本神話改変」,というレッテルを貼られてもしかたがない。


日本書紀編纂者の態度と古事記ライターのごっちゃ煮

 それよりも,前述したとおり日本書紀編纂者は,天上界について,「天」と呼ぶ伝承と「高天原」と呼ぶ伝承があることを前提にして,公権的公定解釈としては「天」の伝承を採用し,「高天原」伝承は,異伝中の異伝として扱った。

 この,文献的根拠,「叙述と文言」上の根拠は,重大である。

 「天」≠「高天原」なのである。「天」の世界観と,「高天原」の世界観とは,まったく別の伝承なのである。

 古事記冒頭は,「高天原」にいるアメノミナカヌシ,タカミムスヒ,カミムスヒの3神という世界観をバーンともってきて,カッコつけているが,じつは,異なる伝承をごっちゃ煮にした,非論理性の典型と言わざるを得ない。


古事記冒頭の整理

 古事記冒頭に,もう一度戻ろう。整理すると,以下のとおりだ。

@ 「天地初めて發けし時」,高天原と3神。これは「みな獨神(ひとりがみ)と成りまして,身を隠したまひき」。

A 「次に,國稚(わか)く浮きし脂(あぶら)の如くして海月(くらげ)なす漂へる時」,アシカビ(宇摩志阿斯訶備比古遲神=うましあしかびひこぢのかみ)と,アメノトコタチ(天之常立神=あめのとこたちのかみ)。
 これも,獨神となって身を隠した。

B 以上5神は「別天つ神」

C 「次に成れる神の名は」,クニノトコタチ(國之常立神=くにのとこたちのかみ),次にトヨクモノ(豐雲野神=とよくもののかみ,豊かな雲の神)。
 やはり,獨神となって身を隠した。

D 「次に成れる神の名は」,ペア神5組,すなわち10神。
 最後のペアが,イザナキ(伊邪那岐命=いさなきのみこと)とイザナミ(伊邪那美命=いざなみのみこと)。
 これは,身を隠さない。

E CとDを合わせて「神世七代」という。


古事記のムスヒ(産霊)思想は一貫していない

 古事記は,その冒頭@で,「高天原」とそこにいる3神の伝承を,バーンともってきた。ここから古事記の世界観が始まった・・・はずだ。異伝中の異伝ではあるが。

 高名な古事記学者である神野志隆光氏は,古事記の世界観,根源的思想はムスヒ(産霊)の思想であると言っている。

 人間や動物に子供が生まれて増殖し,春になると植物が再生する。その根源は何か。古代人にとって,あやしくも不思議な原動力,根源は何か。

 ムスヒ(産霊)が,「産」するのである。ムスヒ(産霊)が,世界を生成する。世界生成の根源だ。そのムスヒは,「高天原」という世界にあった。

 古事記ライターが,こうした後付けの「神話」,「改変された神話」を理解して書いたのかどうか。
 また,「天」と,ムスヒがいる「高天原」との違いが,わかっていたのかどうか。

 わかっていれば,ムスヒの思想で一貫できたろうが,それができていない。

 古事記において,「高天原」とその3神が司令塔となって,ムスヒ(産霊)として,一貫して,日本国の国土や神や自然を作るのかというと,そうではない。


ムスヒ(産霊)思想の破綻

 古事記は,上記Aで,日本書紀第1段と似たような,アシカビとアメノトコタチを登場させる。

 アシカビは,葦の芽が萌えいずる生命力。アメノトコタチは,天の根源。

 これら2神は,古事記冒頭によれば,タカミムスヒら3神=生成の根源神が,「みな獨神(ひとりがみ)と成りまして,身を隠したまひき」のちに,出てきた神である。
 すなわち,ムスヒ(産霊)3神とは,何ら関係がない。

 叙述は,「身を隠したまひき」で,いったん切れている。

 一方日本書紀では,これら2神は,生成の神として扱われている。

 古事記を真剣に読む者としては,ここで,ガクッときてしまうのだ。
 「高天原」とそこにいる3神,高名な古事記学者である神野志隆光が言う,ムスヒ(産霊)の思想は,いったいどうなったの? と。


世界がダブるごった煮

 やっぱり,2つの世界観がだぶっているのだ(@とA)。ごちゃ混ぜのごった煮だから,こんなことになる。

 本来の伝承は,日本書紀と共通するAだったに違いない。

 いっそ,@なんて,なかった方がよかったのだ。

 だけど古事記ライターは,何らかの理由で,「高天原」にいる3神という,異伝中の異伝にすぎない異伝を,強調したかった。だから,強引に@を付け足してしまった。

 古事記のへんてこりんなところは,すでにここから始まっている。


神野志隆光氏の理屈

 学者さんの意見を検討しておこう。

 高名な古事記学者である神野志隆光氏は,古事記の世界観はあくまでも@だという。

 そして古事記は,神の名を「次…,次…」という形で羅列していく。だから,AからDまでのすべての神が,「高天原」に成ったのだ。そう主張している(神野志隆光・古事記・68頁・日本放送出版協会)。

 ムスヒの思想は,一貫していると言いたいわけだ。


神野志隆光説の検討(「叙述と文言」から)

 しかし,古事記の「叙述と文言」は,そうなっていない。

 古事記ライターは,明らかに,神々をグルーピングしている。「天地初めて發けし時」成った神。「海月なす漂へる時」成った神。そして,「次に成れる神」。

 そしてこれらは,最後のD以外は,ご丁寧にすべて,獨神(ひとりがみ)となって身を隠したことになっている。

 身を隠したのなら,もはや,神の威力は働かないはずだ。神の引退だから。

 上記@からEをじっとにらんでほしい。

 獨神となって身を隠すことで,流れはぶつぶつに切れている。だから,上記@の産霊の威力は,及ばない。それが,「叙述と文言」からの帰結だ。


神野志隆光説の検討(もう一つ踏み込んで)

 「獨神(ひとりがみ)と成りまして,身を隠したまひき」を,文言には反するが,やっぱり神として働いたのだと解釈することは,十分考えられる。

 しかしやはり,無理な観念論だろう。

 第1。「獨神(ひとりがみ)」という点。

 のちに述べるとおり,日本の自然や神は,イザナキとイザナミによる性交,すなわち「みとのまぐはい(みとのまぐわい)」により生成される。すなわち,2元論による生成なのだ。

 「獨神(ひとりがみ)」は,原則として神を産まない。
 アマテラスが禊ぎで神を生むが,それは異伝でしかない。

 第2。「身を隠したまひき」という点。

 のちに述べるとおり,神は死なない。死ぬという表現をする人は,日本神話をよく読んでいないことからくる間違いだ。神は死なず,身を隠すだけだ。

 身を隠すということは,神話の表舞台から退場することを意味する。
 たとえば,国譲りという名の侵略により,オオクニヌシ(大国主命)は身を隠す。

 だから,身を隠した神は,その威力を発揮しない。神話の表舞台における神の生成の根源にはならない。国の生成の根源にもならない。


古事記もごく普通の天地開闢神話を語っている(産霊思想はいらない)

 さてここで,古事記の世界観,世界生成神話をまとめておこう。

 上記Aの,「次に,國稚く浮きし脂の如くして海月なす漂へる時」,というのは,日本書紀第1段の天地開闢の場面,「開闢(あめつちひらくる)初に,洲壤(くにつち)の浮れ漂へること,譬(たと)へば游(あそ)ぶ魚の水上に浮けるが猶(ごと)し」と同じ発想だ。

 日本書紀は,このあとに,天地の中に神が生まれたと続け,さらにクニノトコタチ以下の神を語る。すなわち,天地がまずあって,そこから神が生まれるという思想に続いていくのだ。

 古事記はどうか。上記@の部分を頭の中から消して読むと,よくわかる。

 まず「天」だ。

 古事記もまた,上記Aで天地開闢思想を語っている。そこから,神が生成する核のような物,「葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物」からウマシアシカビが生まれ,それが天に向かって「萌え騰(あが)」って,アメノトコタチが生まれる。こうして,「天」を支える神が生まれるというのだ。

 「地」はどうか。

 それが上記Cのクニノトコタチ(國之常立神)であり,トヨクモノ(豐雲野神)だ。
 国土を支える神と,国土の上を覆って豊葦原中国を造る,湿潤で豊かな雲の神だ。こうして「天」と「地」が生成される。

 そして,いよいよ上記D以下で,身体をもつ形象化された神が次第に生成されるのだ。その最後に成るのが,イザナキ(伊邪那岐命)とイザナミ(伊邪那美神)である。

 男女が誘い合う神である。


古来の伝承にいわゆる「高天原」神話をくっつけたのが古事記だ

 どうでしょう。

 きちんと,ごくノーマルな天地開闢神話が語られているではないか。その頭にくっついた「高天原」と3神(上記@の部分)が,邪魔になってしかたがない。

 古事記ライターは,日本書紀に語られているような,日本古来の天地開闢神話をよく知っていた。しかし,何らかの事情で,上記@を冒頭に付け加えたのだ。

 その結果,

@ 世界観の全く違う2つの神話がごちゃまぜになり,

A 「天」と「地」のほかに「高天原」が生ずるという矛盾が生じ,

B 上記@とAが,生成神としてごっちゃになり,

C さらに,「高天原」がすでにあるのに,「天」の根源神アメノトコタチが,あとになって生まれてくる,

 という,わけのわからない展開になってしまったのだ。

 ところで,日本書紀にアメノトコタチは登場しない。

 古事記ライターは,アメノトコタチを創作して,しなくてもいい矛盾を犯してしまったのかもしれない。蛇足だが。


古事記ライターはなぜ高天原と3神の世界観を冒頭にくっつけたのか

 さて,そうなると,古事記ライターは,なぜ高天原と3神の世界観,日本書紀編纂者が異伝中の異伝だと判断した世界観を,古事記冒頭にくっつけたのか。

 タカミムスヒは,その後まったく無視されているわけではない。

 公権的公定解釈である日本書紀本文では,後述するとおり,第9段の「国譲りという名の侵略」で,突然,中心的神として活躍する。
 古事記神話において全体的に活躍していることは,誰でも知っている。

 しかしこれは,ムスヒ(産霊)の霊力とはまったく違う理由で登場するにすぎない。

 タカミムスヒは,あとでじっくり検討するとおり,じつは,天孫の外戚として皇統につながっているにすぎない。「天子降臨」ではなく,「天孫降臨」になってくれないと,皇統とは無関係になってしまう,不思議な神なのである。

 それは,日本書紀第9段本文冒頭の系譜関係を調べればすぐわかる。


藤原不比等の影

 タカミムスヒの登場は,天孫の外戚として日本神話に位置づけるという,意図あってのことなのである。その背後には,律令国家草創期から天皇の外戚として結びついていった藤原氏,その祖とも言える藤原不比等の姿もちらついている。

 意図的な神だから,公権的公定解釈である日本書紀本文では,登場が必要になった段階,第9段の「国譲りという名の侵略」で,突然登場する。

 日本書紀では,それまで,何の位置づけもされていない。

 これについては,日本神話においてタカミムスヒがまともな神として扱われているのかどうかもふくめ,あとで徹底して検証する。


古事記ライターは「神国日本」の国生みを語る

 さて,そんなことよりも,もっと理論的な問題を考えよう。

 古事記ライターは何も考えていなかっただろうが,「天命」を超えた「言依さし」という理屈も考えられる。
 それには,ちょっと先回りして,古事記の神観念と構成を説明しなければならない。

 後にも述べるように,古事記は神生みに非常に熱心だ。

 生まれてきたイザナキとイザナミは国を生み,さらに続けて神々を生む。その神生みに対する古事記ライターの熱心さは,日本書紀など比ではない。

 神々を羅列し,整理し,君たちの周りにはこんな神がいるんだよと説明する古事記ライターの執念は,とてつもない。

 古事記を読んでいて,ここで挫折した人も多いと思う。とにかく辟易するところである。
 私には,神話の世界から縁遠くなった人々に,由来がわからなくなった神を語り,後世に残したいという執念さえ,感じられる。

 とにかく古事記は,こうした神生みの果てに,アマテラス(天照大御神)ら,ありがたい3神が生まれてくるという構成になっている。

 イザナミは,神生みの過程で火の神カグツチ(迦具土神)を生み,焼かれて死ぬ。夫のイザナキは,イザナミを追って黄泉国へ行くが,地上界に戻ってきて,黄泉国(よみのくに)での穢れを祓い落とすために禊ぎ(みそぎ)をし,天照大御神ら3神を生む。

 神生みの果てに,神々しい神が生まれてくる。それがアマテラスというわけである。古事記ライターは,「神国日本」の国生みを語っているのだ。


天皇の系譜につながる神と言依さしの思想

 そのアマテラスが,天皇の皇祖神となる。

 ここで古事記ライターは,「言依さし」の思想を強調する。

 「言依さし」とは,アマテラスによる支配者の指定である。指名である。
 古事記の文言で示すならば,「我が御子(みこ)」こそが後継者であり,葦原中国を支配すべきであるという,権威づけの思想である。

 天皇の系譜を語るための,伏線だ。

 学者さんもみんな,何となく「天孫降臨」という言葉を使ってしまっているが,古事記をきちんと読むと,じつは「我が御子」の降臨,すなわち「天子降臨」として企てられたものであることがわかる。

 これこそが古事記の本質であり,「天孫降臨」は,タカミムスヒという外戚を神話に取り込む,トリックに過ぎない。この点,はっきりのべた文献を知らないが,それは後に述べる。

 とにかくここでは,古事記の本質として,「言依さし」の思想があることを理解しておけばよい。血の系譜に基づいた後継者の指定,もっと端的に言えば「世襲」こそが支配の正当性の源泉であり,それ以外は許さないという思想だ。

 要するに,神生みの果てに生まれる,神々しいアマテラスが皇祖神になり,天皇の正当性が基礎付けられるというのである。
 そのために古事記ライターは,一所懸命,世の中にいる,ありとあらゆる神々を整理して,イザナキとイザナミに産ませたのだ。

 だから,神生みの叙述は,古事記ライターにとって,天皇の系譜につながる重要な叙述だったはずなのである。
 いかなる神々がこの世界を支配しているのかは,古事記ライターにとって,重要なテーマだったのだ。


天命思想というもの

 さて,話は跳ぶが,中国には天命思想というものがある。

 中国の歴史は,あの広い大地を,誰が乗っ取って支配するかという問題の繰り返しだった。おそらく,中国共産党といえども,この歴史の中で語られる存在であろう。

 広い大地を新たに支配した「皇帝」は,「血」という血統を拒否し,「血」の伝統に固執する者を殺し尽くし,新たな王朝を作り出す。
 だから,中国4000年の歴史といえども,一貫性はない。征服王朝の繰り返しに過ぎない。

 だからこそ中国には,歴史の初めから,「天命思想」があった。
 現実の世の中を誰が支配するかは,「天命」によって定まる。決して,「血」や「言依さし」ではない。


天命思想は支配の正当性の観念

 中国の覇権を争った武将たちは,もとは田舎のあんちゃんや,荒くれ者や,峠の追いはぎの親分だったり,さまざまだ。それが,時の王朝の人々を殺し尽くして,新たな王朝を作る。

 若い時のあんなやつが,今では俺たちを支配している。
 それはなぜか。天命を受けたからなのだ。だから人々を支配できるのだ。だから偉いのだ。

 でも,いったんその理屈を立てたからには,天災が続いて社会が混乱したり民が離反したりすることは,支配者の不徳の表れとなる。
 すると天命が変わり,革命が起こる。こうして,支配者が交替する。

 こう言うと,何かしら哲学的な響きがあるが,何のことはない。覇権を争って人を殺し,武力によって成り代わった支配者が,天命が自分に変わったから,これからは俺が支配するという屁理屈である。田舎者が中国大陸を支配する屁理屈にすぎない。

 勝てば官軍,負ければ賊。後付けの理屈であり,高尚な要素は,これっぱかしもない。

 余談だが,諸星大二郎の「西遊妖猿伝」は,この天命思想を,物語を支える背景思想として組み込んだ,永遠の傑作だと思う。

 古事記ライターも,天命思想をよく知っていた。それは,当時の中国文献を読む者の常識だった。


天命思想と言依さしの思想との矛盾

 しかし,よく考えてみてほしい。天命思想は,言依さしの思想に反しないか。

 アマテラスは,決して,中国的な意味での「天」ではない。
 「天」と「地」ができてから,神生みの末にやっと生まれてきた神にすぎず,この世の中すべてを支配している超自然的なものとしての「天」ではない。

 アマテラス以下の神がどう頑張ってみても,それとは別に「天」があり,「天」の意思があり,「天命」がある。それが,先進国中国の常識だ。

 アマテラスこそが皇祖神であり,アマテラス以来の「言依さし」,すなわち世襲こそが支配の源泉であると考える古事記ライターにとってみれば,「天命」と「革命」は邪魔である。

 とんでもない思想である。

 アマテラスから続く天皇の系譜は,無条件に,永遠に続かなければならないはずだ。天命が変わるなどという事態はありえないし,あってはならない。


天命思想を取り込んで天孫が天命を受けていると言いたかった

 だとすれば,どうしたらよいか。

 天と,そこにいる最高神を初めから決めてしまい,その神が,アマテラスとともに,「天子降臨」もしくは「天孫降臨」を命令すればよいのだ。

 そうすれば,天の下の支配者とその子孫たる天皇は,アマテラスの「言依さし」も,天の意思である「天命」も,ともに受けていることになる。

 その際,形式としては,「天子降臨」でも「天孫降臨」でもどちらでもかまわない。しかし,前述したとおりタカミムスヒが天孫の外戚でなければならない事情があったから,「天孫降臨」が選ばれた。

 いや,はじめは「天子降臨」だが,最後の最後になって,タカミムスヒのために孫が生まれ,「天孫降臨」となるのだ。

 こうして,古事記ライターは,天命を与える天として「高天原」を選び,天命を与える神としてタカミムスヒら3神を選んだ。

 タカミムスヒは,天命思想の「天」の原理を体現し,アマテラスは,天皇の祖先としての「血」の原理を体現している。

 「言依さし」の原理は,じつは,こうした2つの原理が統合したものである。


タカミムスヒは産霊の思想ではなく天命思想につながっているだけ

 あとで述べるとおり,日本書紀の神話を詳細に検討するとわかるが,日本古来の神はタカミムスヒであり,アマテラスではない。

 アマテラスは,天武天皇が壬申の乱を制したあと,突如日の出のような勢いで信仰された神にすぎない。

 日本書紀第9段は,天孫降臨という,天の下を支配する者の正当性を語る大変重要な部分だ。その本文では,タカミムスヒが天孫降臨を命令する。

 決して,アマテラスではない。アマテラスは,まったく無視されている。

 古事記におけるタカミムスヒは,アマテラスとともに命令神として,天孫降臨等を命令する。日本書紀とは違って,そこのところは,しっかりと位置づけられている。

 古事記冒頭で,無前提の前提であるがごとく登場するのは,天命思想を取り込んだ「天孫降臨」を演出したかったからだ。

 決して,ムスヒ=産霊の霊力を考えていたわけではない。


高天原概念の意固地さとちっぽけさ

 ところで,「高天原」とは,いったいなんなのか。

 大和地方(現在の奈良県)の上に広がった天上界なのだろうか。そうだという人もいるし,大和地方の具体的な地名を指摘する人さえいる。

 聖書は,神が天と地を作り,人類の祖アダムを作ったとしている。聖書を作った人たちが,人類すべてを含めた壮大な構想をもっていたのか,単なる誇大妄想だったのかは,今となってはわからない。

 とにかく結論だけは,文字どおり世界思想だったとは言える。だから,肌の色が黒くても黄色くても,世界全体の思想として通用した。

 決して,世界の片隅の思想ではなかった。

 「高天原」思想は,世界の片隅のちっぽけな世界である。結構意固地な,小心者の思想だ。

 海の向こうに違う世界があり,巨大な文明国があることを十分承知していたのに,大八洲国が世界であると言って憚らない思想である。

 沖縄も朝鮮も中国も無視している。人間の誕生も無視している。

 


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第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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