日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
古事記の神生みのA,火の神カグツチにイザナミが焼かれて生成する神を検討しよう。 じつは,A以下の神生みは,日本書紀第5段第6の一書と,ほとんど同じだ。 火の神カグツチが生まれ,イザナミが焼かれて神去(かむさ)る。こうして,イザナキの黄泉国訪問と,禊ぎによるアマテラスら3神の生成に,話が発展していく。 この間,物語の途中で,数々の神が生成してくる。前述した神生みの,AからDだ。 「黄泉国訪問」と「禊ぎ」は,国生みの後,延々と続く「神生み」の一環であり,その神生みの最後の最後に,その集大成として,アマテラスら3神が生まれてくるという仕掛けになっている。 輝かしき「神国日本」,というわけだ。
それはともかく,古事記は,日本書紀編纂者が公権的公定解釈として採用しなかった,異伝である。日本書紀本文には,採用されていない。 イザナキとイザナミといえば,黄泉国巡りというほど有名だが,日本書紀では異伝にすぎない。 今後,同様な関係がしばしば出てくるが,古事記には異伝が多いということを忘れないでほしい。 そもそも,「高天原」とタカミムスヒら3神という古事記冒頭も,異伝中の異伝にすぎなかったのである。 なぜ,イザナミの「死」と禊による神生みは,日本書紀では異伝扱いなのか。 前述したとおり,由緒正しい天皇の系譜と,それに先立つ神々の系譜を述べるためには,陰陽2元論による神生みが必要である。無性生殖による神生みでは駄目なのだ。 禊という,イザナキだけの単性生殖では,天皇の血が語れないのだ。
イザナミを失ったイザナキは,愛するイザナミを火の神カグツチと交換したようなものだと言って,嘆く。 問題は,その泣き方だ。 枕辺に腹這い,足の方に腹這って泣く。単に泣くのではなく,身体全体にまんべんなく腹這って泣くのだ。 その涙から,ナキサワメ(泣澤女神=なきさわめのかみ)が生まれた。 こうした風習をもった人々は誰だろうか。 日本書紀には,こうある。 允恭天皇が亡くなると,新羅国の王が,弔いの使いをヤマトに遣わした(允恭天皇42年)。その使いは,対馬に泊まっては「大きに哭る(みねたてまつる)」。筑紫にやってきては,また「大きに哭る(みねたてまつる)」。 そうしてようやく,殯(もがり)の宮(葬礼の場)にたどり着いた。 要するに,故人を偲び泣くことを,一種の儀式にしている一行なのだ。こうして,哀悼の意を表する。
そのほかにも,欽明天皇32年8月には,欽明天皇の死にあたって,新羅が弔の使いを遣わして殯に「奉哀る(みねたてまつる)」としている。 天武天皇元年3月には,天智天皇の死を知った唐の官人郭務宗(かくむそう)は,筑紫にいて,3回「挙哀(みねたてまつる)」とある。 泣くことを儀式とした人は,新羅や中国の人だったようだ。 もちろん,葬式にあたって泣く役割の女は,日本にもあるようだ。日本書紀第9段本文中の異伝には,アメワカヒコ(天稚彦=あめわかひこ)が「死んだ」とき,鷦鷯(さざき)を以て哭者(なきめ)としたとある。 ただ,天武天皇朱鳥元年9月には,天武天皇の死にあたって家臣が「発哭(みねたてまつる)」ことが記されている。このころには,日本にも哭き女の風習が広まっていたのだろう。 ただ,新羅の王子金霜林(こむそうりむ)は,筑紫においてやはり3回,「発哭」している(持統天皇元年9月)。 哭女(なきめ)の風習は,中国や新羅からやって来たのではないだろうか。ナキサワメは,新羅からやって来た神ではないだろうか。 イザナキの泣き方には,中国や新羅の風習が濃厚だ。
イザナミを失ったイザナキは,歎きのあまり,十握剣(とつかのつるぎ)でカグツチの首を斬る。 神は死なないはずだった。カグツチはなぜ死ぬのか。 また,イザナミもここでは,「出雲國と伯伎(ははきの)國との堺の比婆(ひば)の山に葬(はふ)りき。」とされている。イザナミも死んだようだ。 ここでは,人の心に生き続けるから「死なない」というのではなく,叙述上,生成の前提としての「死」が語られているのだから,カグツチは「死ぬ」のであろう。 他のものに変化して生きていると言ってもよい。 これはこれで,古代人が神をどう考えていたかという問題とは異なるモチーフに基づいているのだ。 これに対しイザナミは,黄泉国に行くだけである。死んだのではない。
私は,原初的な観念では,神は死なず,神話の表舞台から去り,どこか他の世界に行くだけであると考えている。 いつき祭る人がいる限り,神は死なない。 だから,古事記のこの部分や,日本書紀第5段第5の一書のように,神に対する葬式を描く伝承は,かなり新しい伝承である。 また,神を,あたかも人間のように見立てて肉体化し,その「死」や「死体」を語る伝承も,かなり新しい。 国譲りという名の侵略の場面で,アメワカヒコが死に,アジスキタカヒコネが葬式に出向くという伝承も,かなり新しい伝承である。
さて,カグツチ「殺し」の場面だ。 その滴る血から,神々が生成する。刀の柄に集まった血が,指の股からあふれ出て成った神さえある。 神を殺して,そこから神が生ずるという神話は,かなり血なまぐさい。 ここで生成したタケミカヅチ(建御雷之男神=たけみかづちのをのかみ)は武神であり,いわゆる国譲りという名の侵略では,剣を突き立てた脅しの主役となる。 こうした神話伝承をもっていた人たちは,特異である。 剣を信奉した,権威的権力的伝承をもった,特異な人々ではなかったか。 これは,フツヌシとタケミカヅチの異同というテーマで,後述しよう。
血から神々が成った後,カグツチの「死体」の頭,胸,腹,陰部,左手,右手,左足,右足からも,それぞれ神が成る。合計8神だ。 これは,表面から見た身体のすべてを,几帳面に示している。 これは,このあと,すぐ繰り返される。すぐ後に続く黄泉国巡りでは,イザナミの死体の頭,胸,腹,陰部,左手,右手,左足,右足のそれぞれに,8つの雷神がいたという。
しかし,その構成は,まったく変だ。 このくだりを整理すると,以下のとおり。 @ カグツチの首を切った時にほとばしった血から生成した神,3組。3+3+2=合計8神(この中にタケミカヅチもいる)。 A 「あわせて八神は,御刀(みはかし)によりて生れる神なり。」 B 殺されたカグツチの頭,胸,腹,陰,左手,右手,左足,右足からも神が成った。 C 切った刀の名は,アメノオハバリ(天尾羽張神)という。
まず,@の部分。ここは, 「ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血,湯津石村(ゆついはむら)に走(たばし)り就(つ)きて,成れる神の名は」,イワサク,ネサク,イワツツノヲ。 「次に御刀の本(もと)に著ける血も亦,湯津石村に走(たばし)り就きて,成れる神の名は」,ミカハヤヒ,ヒハヤヒ,タカミカヅチ。 「次に御刀の手上(たがみ)に集まれる血,手俣(たなまた)より漏(く)き出でて,成れる神の名は」,クラオカミ,クラミツハ。 「叙述と文言」からすれば,カグツチの「血から成れる神」を整理している。
だから,Aの,「あわせて八神は,御刀(みはかし)によりて生れる神なり。」というまとめ方は,まったくおかしい。 私には,そうは読めない。 日本書紀第5段第6の一書はどうなっているか。 3つに切られた「死体」から成った神のほかは,すべて,「垂(しただ)る血」から神が成ったとしている。「垂る血,激越(そそ)きて~と為る」という「叙述」が,パターンになっている。 すなわち,「死体から成れる神」と,「血から成れる神」に分類しているのだ。剣から成ったとは言っていない。
そして,Bの部分は,「殺さえし迦具土神の頭に成れる神の名は,・・・」などと始まっているように,殺されたカグツチの「死体から成れる」神だ。 だから,ここのところのまとめ方は,@)カグツチの血から成った神と,A)カグツチの死体から成った神に分けてまとめたはずだ。 ところが,Bのあとに,Cの,切った刀の名は,アメノオハバリ(天尾羽張神)というという伝承が来る。 @)カグツチの血から成った神と,A)カグツチの死体から成った神に分けてまとめたのであれば,このCは,AとBの間に位置しなければならない。 簡単に言えばこういうことだ。 刀で切って血が出て,それが神になった。これは(本当は血から成った神だが)刀から成った神であり,その名前は「天尾羽張神(または伊都之尾羽張神)」という。そのあと,死体からも神が成った。 整理すれば,こんなふうになるはずである。 古事記序文が誇らしげに語るような,天才,秀才の古事記ライターが,なぜこんな適当な整理をするのか。
で,逆に,Cがここに置かれた,叙述上の位置関係を尊重して考えてみる。 そうすると,古事記ライターは,剣から成った神を,@,A,Bと叙述してきて,最後のCで,その剣の名前は,アメノオハバリなんだよ,と言いたかったのか。 すなわち,剣でカグツチを切った。そうすると,まず,血がほとばしり出る。一方で,「死体」が転がる。 そうした意味では,血から成った神も,「死体」から成った神も,ともに剣から成った神に違いはないと言える。両者を区別する理由はない。 となると,ここで羅列されたすべての神,8神+8神=16神すべては,剣から生じた神であり,剣の神アメノオハバリの子,ということになるのか。 となると,タケミカヅチだけが剣の神ではないということだ。 後述するとおり,国譲りという名の侵略の場面では,タケミカヅチだけが,アメノオハバリの子だとされている。これは変だということになる。 いずれにせよ,Aで,8神が剣から成った神だといいながら,その剣の名前を書かず,Bを挟んでCで述べたこと自体が,中途半端なのである。
で,本当にカグツチを切った剣から生成した神なのか。血から成った神ではないのかという,前の疑問に戻る。 述べたとおり,剣でカグツチを切った。そうすると,まず,血がほとばしり出る。一方で,死体が転がる。 血から成った,@の神々を,剣から成った神だと言う(A)ならば,死体から成ったBの神々も,剣から成った神なのだ。だからCで,剣の名前を書き記したのであろう。 だとすると,剣から成った神のうち,血から成った神(@)と,死体から成った神(B)とに分けて整理したことになる。 やはり,@は,血から成った神である。
ここまで考える人は少ないが,じつは,Aは,原文では改行され,2字分低めて書かれている。これを,あとから挿入された一文と考えることもできる。 でも,Cの部分は,Bとは改行されず,Bと一体の文章だ。 Bと一体のCなのだから,古事記ライターは,@だけでなく,Bの,カグツチの死体から成った神々も,剣から生まれた神であると言いたかったのだろう。そして,全体として,@も含めて,剣から生まれた神を叙述したかったのだと,とらえるしかなくなる。 そうなると,前述したとおり,国譲りという名の侵略の場面で,タケミカヅチだけがアメノオハバリの子だとされているのは,ちょっと変だということになる それが嫌であれば,Bと一体のCを,何らかの理由による,後世の書き加えだと言うしかない。 古事記は,決して,平明で一貫した文献ではない。
この問題は,じつは,フツヌシとタケミカヅチの異同という問題にもつながっている。 後述するが,とにかく,古事記ライターのまとめ方自体が混乱している。 この,いい加減な叙述が,すべての混乱の元兇である。
さて,カグツチの「死体」から成った神については,まだまだ問題がある。 じつは,山の神オオヤマツミ(大山津見神)は,カグツチが生まれる前に生まれている。テキストにして,2頁前だ。 ところが,古事記ライターは,カグツチの死体から,「正鹿山津見神」,「淤縢山津見神」,「奧山上津見神」,「闇山津見神」,「志藝山津見神」,「羽山津見神」,「原山津見神」,「戸山津見神」が成ったとしている。 オオヤマツミが成ったのに,なぜ,蒸し返すように,山の神々が生まれてくるのか。よくわからないところである。
そういえば,雷神も重複している。 カグツチの「血」から成ったタケミカヅチは,雷神である。 ところが,その後黄泉国で,「蛆たかれころろく」イザナミの身体の各部には,頭に「大雷」,胸に「火雷」,腹に「黒雷」,陰に「拆雷」,左の手に「若雷」,右の手に「土雷」,左の足に「鳴雷」,右の足に「伏雷」,「并(あは)せて八はしらの雷神成り居りき。」である。
こんな,重箱の隅をつつくような,しょうもないことを考えていたら,まだあった。 狭義の「国生み」のあと,「神生み」に入る。そこで真っ先に生まれてきたのが,「次に海の神,名は大綿津見(おほわたつみの)神」であった。 いわゆる海神(ワタツミ)である。海を「すべる」(統治する)神だ。 ところが,イザナキが,アマテラスら3神を生む前に禊ぎをした際に生まれてきた神は,「底津綿津見神」,「底筒之男命」,「中津綿上津見神」,「中筒之男命」,「上津綿上津見神」,「上筒之男命」。 この,ソコワタツミ,ナカワタツミ,ウワワタツミは,オオワタツミ(大綿津見神)と,いかなる関係に立つのでしょうか。 底,中,上,と,支配領域を分析し尽くしてるのだから,それ以外に,海を支配する神はいない・・・のかな。 よくわかりません。
古事記の「神生み」のここらへんは,ちょっと,わけがわからない。 黄泉国巡りの後,イザナキが黄泉国の汚穢を禊ぎして,天照大神ら3神を生む場面。 水で身体を洗い流す「禊ぎ」をして,初めて生まれてきた神は,「八十禍津日神(やそまがつひのかみ),次に,「大禍津日神(おほまがつひのかみ)」でした。 で,この2神は,「其の穢繁國(けがらはしきくに)に到りし時の汚垢(けがれ)に因りて成れる神なり。」なのです。 で,だからこそ,「次に其の禍(まが)を直(なほ)さむと爲(し)て,成れる神」は,「神直毘神(かむなほびのかみ)」,次に,「大直毘神(おほなほびのかみ)」でした。 2神に2神で,対応している。 ところがさらに,「次に『伊豆能賣神(いづのめのかみ)』」。あわせて「三神なり。」ですと。これは,余計なのではないか。 古事記ライターの頭の中が,よくわかりません。
古事記の「国生み」は,神々のいる国の「国生み」。すなわち,「神国日本」の国生みなのであった。 しかし,そのカタログは,それほど信用できない代物のようだ。 単に,口承伝承のなかで,リズムをつけるために出てきたものであるらしい。だとすると,口から出任せと紙一重ということになる。 必ずしも,すべてが,古来いつき祭られた神ではないのであろう。
さて,それよりも,もっとよくわからないことがある。 古事記によれば,「その子迦具土神の頚(くび)を斬りたまひき。」で始まって,前記したとおり,飛び散った血から神々が生まれ(@),さらに,「殺さえし迦具土神の頭(かしら)に成れる神の名は,」として,「頭」,「胸」,「腹」,「陰(ほと)」,「左の手」,「右の手」,「左の足」,「右の足」と,8つの各部に成った神を羅列していく(B)。 首が飛んだだけだから,首以下の胴体は,そのまま。 古事記ライターは,要するに,カグツチの「死体」の各部から8神が生まれたと言いたいだけである。 「死体」を切り刻んだのではなく,首を落としただけであり,首から下はつながっているのが古事記だと覚えておいてほしい。
しかし日本書紀第5段第6の一書は,カグツチを「斬りて三段(みきだ)と爲す」としている。そこから,「此,各(おのおの)~と化成(な)る」のであるから,3つに切り刻んだ各部から成ったのである。 ただ,成った神の名の記載はない。 第5段第7の一書も同じ。しかしこちらは,3つの部分から成った神名が記載されている。 第5段第8の一書は,「斬りて五段(いつきだ)に爲す」としている。5つに切り刻んだ点が,それまでの伝承とは違うところだ。そして,その神名も列挙されている。 日本書紀第5段第6の一書から第8の一書までは,カグツチの「死体」の各部から成った神の異伝,@いくつに刻んだのか,A成った神の神名を,きれいにまとめているのだ。 第7,第8の一書は,短い。 これは,基本となる第6の一書を,まず長々と引用して,それと違う点だけを指摘しようとしたからだろう。 とにかく,首を切っただけ,という古事記の伝承は,かなり特殊な異伝だったのである。
さて,ここらへんまで検討してくると,古事記の伝承の特殊性,古来の伝承における位置関係が見えてくる。 日本書紀において,古事記の伝承に対応するのは,第5段第6の一書である。そこには,有名な「黄泉国巡り」が展開されているから,古事記も,これを基本としていることは,間違いがなかろう。 しかし,問題は,そう単純じゃないのだ。 上記した,カグツチ「殺し」により,「死体から成った神」に注目すると,日本書紀の伝承が,きれいにまとまってくる。 じつは,そのベクトルの先に古事記があるのだ。 古事記の伝承は,古来の伝承と言うよりも,伝承を総合した新しい伝承である。それを検証してみよう。
(第6) (第7) (第8) (古事記) 切り刻み 三段 三段 五段 首だけ 神名 不明 雷神
この「叙述と文言」を読めば,伝承の発展過程が明らかである。 第5段第6の一書は,3つに切り刻んだが,その各部から成った神は不明だった。 そこで日本書紀編纂者は,3つに切り刻んだ伝承のなかで,神名が明らかなものを探す。それが,第5段第7の一書だ。 それは,雷神,大山祇神,タカオカミだとしていた。 ところが,さらにこれを発展させた伝承がある。 @ 3つではなく,5つに刻んだとする第5段第8の一書だ。 A しかもこれは,前記した雷神,大山祇神,タカオカミのうち,ヤマツミ(山祇),すなわち山の神だけに絞って,そのバリエーションが生まれてきたという伝承になっている。 この2点が,古来の伝承内での,第5段第8の一書が成し遂げた飛躍だ。
日本書紀編纂者は,720年の時点で,古来の伝承を,ここまでまとめあげた。そこには,伝承の発展過程が,きれいに出ている。 第5段第8の一書は,飛躍した先にある伝承だったのだ。720年の時点で,最新の伝承であり,伝承発展の到達点だったのだ。 私は,日本書紀編纂者の優秀さに,酔ってしまいそうだ。ただでさえ錯綜した伝承を,ここまできちっと整理できたのは,エライ。 今までの学者さんは,これがわかっていたのかどうか。日本書紀編纂者の偉大さをわかっていたのかどうか。
ま,愚痴はいい。とにかく古事記だ。 古事記は,切り刻んだという点は受け継がなかった。単に首を切っただけである。 そして,第5段第8の一書にあった,「死体から成った神」が,すべて山の神,山祇=山津見神であったという伝承は,そのまま受け継ぎ,さらにそれを,詳細に述べた。 「身」から成った神は,「胸」と「腹」に分別し,「手」と「足」は,それぞれ,左右の手と足に分けた。そして,それぞれに神を配置した。 こうして,日本書紀の中でも飛躍した伝承であった第5段第8の一書を受け継ぎ,さらに詳細にした。 「詳説 神代史」と銘打った,学習参考書みたいに。 720年に日本書紀編纂者がまとめた時,突き詰めたところにあった第5段第8の一書。
日本書紀編纂者は,古事記を見ていない。 「山津見神」に関する,古事記の完成された整理を見ていれば,第6の一書から出発して,第8の一書で筆を置くようなことはしない。 応神天皇即位前紀で,「然れども見ゆる所無くして,未だ詳ならず」,と書き残すことができた日本書紀編纂者。 あらゆる文献を渉猟できた日本書紀編纂者。 泉津平坂の所在について,「其の泉津平坂にして,或いは所謂ふ,泉津平坂といふは,復別に(またことに)処所(ところ)有らじ,但(ただ)死るに臨みて気絶ゆる際(いきたゆるきわ),是を謂うか」。 現代の学者さんが陥っている観念論を排して,現実的な思考ができた,日本書紀編纂者。 彼らは,「山津見神」に関する,古事記の完成された整理表を見ていない。
逆に,古事記ライターは,日本書紀を見ている。 自らを,第5段第8の一書が指し示す,ベクトルの延長線上に位置づけたのだから。 これこそ古事記だ。 古事記は,返す返すも,不思議な書物である。
さて,古事記が,首だけ切って首の下はつながっているカグツチ「殺し」にした理由はどこにあるのか。 例によって,そんな異伝があったのさ,で終わらせるのが一番楽ではある。 しかし,カグツチの「死体」から成った神の,以上の発展過程を見てしまうと,私は納得できない。 私に言わせれば,古事記ライターが,おっちょこちょいだっただけのことである。三段ではなく,五段でもなく,八段に切った点を叙述するのを,忘れてしまった。 古事記ライターは,カグツチを切り刻んだ伝承として古事記を書いたのではなかろうか。
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