日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版 |
2009年10月5日up | (物語読者として日本神話を解明する) |
付録・初版の「結論とあとがき」 初版の「結論とあとがき」は,言わずもがなという内容で,少々くどかったが,私の日本神話に対する「態度ないし立場」と「読み方」という点で,まだ意味があるかと思われるので,削除せずに付録としておく。
古事記は変な書物だ。 初めて古事記を読んだときの感想だ。古色蒼然という読後感はない。むしろ,1本筋が通っていて,新しさを感じさせる。明快かもしれない。ところが本当に明快かというと,矛盾がたくさんある。わけのわからないところもたくさんある。全体がもやもやしているようでもある。 私は納得できなかった。 矛盾を解決するためには,クロスレファランスしかない。矛盾のように見えても,古事記ライターの責任ではなく,古来の日本神話自身の問題ではないのか。クロスレファランスすれば,ライターの編纂意図以前の,伝承の真実が見えてくるのではないか。 しかし古事記は,取り付くしまがなかった。とっても変,と言うほかない。古事記を三読した結論だ。 だから,日本書紀を読んでみた。これは,古事記よりもはるかに錯綜している。異伝がたくさんある。 ところがこれが,とんでもなくいい加減な書物だったのだ。
私は,自分を客観化したいと考えた。素人の私が考えていることなど,はるか昔に誰かが気づいて書いているはずだ。それが私の信念だった。その分野の専門家が他の分野に首を突っ込むときは,誰しもそう考えるはずだ。 ところが,本屋さんで関連書物やいわゆる注釈書をあさってみても,私のようなスタンスで日本神話を読み,疑問をもった人がいないのだ。古事記神話どころか,日本書紀の神話でさえ,きちんと読み切った人がいるのかどうか,疑問だ。 学者さんたちは,造作,造作,で切り捨ててしまうから,神話を離れて,民俗学や神話学等の観点から,日本神話を読み直そうとする。それはそれで1つの学問かもしれないが,日本書紀や古事記を手にとって読み進める,物語読者の立場に立った解説は皆無だ。注釈書を手にとっても,この部分をどう理解したらよいのかという,物語読者の疑問には答えてくれない。それどころか,その文章からして,日本神話自体の一言一句をろくに読んでもいないことが明白だったりするから,信用する気にもならない。 私は,学者さん恐るるに足らず,と確信した。 学者さんの注釈は,おおむね近視眼的だ。物語としての日本神話全体を捉えたうえでの注釈ではない。クジラを解体して,その肉片を,さあ味わってくれというような注釈だ。しかも,古事記を偉大な古文献として崇め奉る立場を,決して崩そうとしない。
一方,物語読者として日本神話を読む人たちは,日本神話を全体的総合的に捉えて,ぼんやりした総体を紹介するだけで終わっている。それ以上一歩も出ていないと言ってよいだろう。人によっては,それを面白おかしく説いて,市民の身近なものにしようという工夫があるくらいだ。 日本神話とて物語だ。物語作者がいて,物語読者がいる。 日本書紀の神話について言えば,数々の伝承に基づいて,日本書紀編纂者が1つの物語にまとめた。そして,いわば正伝とも言うべき本文に反する異伝を,一書として残した。だから,これらを比較検討することによって,日本神話の真実に迫れるはずだ。 このように,日本神話は,立体的な世界を構築しているのだ。それを解き明かさなければならない。その作業を放棄し,「記紀神話」によれば,という平面的な把握しかしてこなかったのが,今までの学者さんや読者だったのだろう。「記紀神話」によればという全体的思考は,捨て去らなければならない。 読者としてはどうすればよいのだろうか。 まったく簡単だ。種々の文献を駆使する学者の立場を捨て,物語読者の立場にたって,日本神話を読めばよいのだ。矛盾,疑問,その他に答えるには,日本神話を物語ととらえ,物語作者の叙述意図を考えなければならない。そのためには,信じる信じないはともかく,造作だの政治的書物だのと四の五の言う前に,物語をそのまま受け入れる必要がある。
私は,人に頼らず,自分の頭で,日本書紀,古事記の叙述意図を考える書物を作るしかないと考えるようになった。 その結論は,古事記駄本説ないし古事記無価値説だ。風土記は別にして,日本神話の骨格は,日本書紀の神話にある。 具体的にはこういうことだ。 日本神話をきちんと理解するためには,古事記を読んではいけない。日本書紀の神話だけで足りる。古事記を読んで日本書紀の神話を歪曲してはいけない。古事記には,日本書紀と対等に,日本神話を論ずる資格がないからこそ,日本書紀を読む際に,古事記を参照しながら読んではいけない。日本書紀は日本書紀として,古事記から独立させて読むべきだ。 しかし,古事記を読むときに,日本書紀を参照しながら読む作業は必要だ。日本書紀こそが,日本神話の骨格を語っているからだ。また,古事記だけを読んで日本神話を知ろうとするなど,もってのほかだ。確かに古事記はコンパクトで読みやすい。しかし,古事記だけを読んでいると,私がかつて陥ったように,思考停止状態になってしまう。矛盾があるけれど,しょせん神話はこうしたものかと考えて,お伽噺の世界に遊んだりするだけで終わる。 日本書紀と古事記は,そういった関係にある。
以上の意味で,いわゆる「記紀神話」という言葉は,日本書紀と古事記を対等に扱っている点で不当であると考える。それだけでなく,日本神話をのっぺりした平面的な神話と考え,全体的な把握で満足する,1つの標語である点でも不当だと考える。こんな頭では,立体的な日本神話は把握できない。 私は,「記紀神話」という用語を,断固,廃語にすべきであると考える。日本神話を引用するときは,「日本書紀第9段本文によれば」とか,「日本書紀第9段第1の一書によれば」とか,「古事記によれば」と言うべきだ。その際,なぜ本文によらなかったのかとか,なぜ一書や古事記によらなかったのかという問題が生ずる。それをきちんと解決しておかなければならないから,常に,引用者の見識が問われる。日本書紀と古事記の神話をどう捉えているかが,常に問われるのだ。引用する理由を,簡潔なコメントですませられる見識が問われるのだ。 この意見には異論もあるだろう。しかし,今までの学者さんたちや研究者が,「記紀神話」の一言一句をきちんと分析し理解したうえで発言していなかったことは,明らかだ。「記紀神話によれば」と書き出すことにより,読者を,あたかも論者が記紀神話全体を把握しているかのような錯覚に陥らせる。ところが実際には,日本書紀と古事記を斜め読みし,全体的総合的把握の下に,論者に都合のよいところをつまみ食いして,論拠として引用しているだけなのだ。 私は,「記紀神話によれば」という語り口は,日本神話を語る者として恥ずかしいことだと考えている。この語り口が,戦後長期間にわたり日本神話論を停滞させ,学問にまで高めなかった。 何よりもまず,文献としての日本書紀,古事記から,日本神話を読み取ることが先決だ。「叙述と文言」をきちんと把握すれば,日本神話がよく身につく。筋の悪い議論を無視できるようになる。駄説に人生を惑わされなくなる。考古学や民俗学や神話学その他は,そのあとに始めても遅くない。
冷静に学問を論ずるならば,それなりの表現がある。余計なことは言わずに,淡々と,「叙述と文言」を連ねていけばよいのだ。 しかし,そうした文章に限って,人々は無視する。読む人は読むのだが。 感情を表に出すか。どの程度出すか。文章表現に悩むところだ。学術論文のように淡々と書くだけが,一番楽なのだから。 挑発的表現もあるが,すべて,それなりの根拠を示してある。どうか,全体を読んで評価していただくように。くれぐれもお願いする。
じつは私は,古事記序文をあえて無視した。古事記序文をめぐっては,古事記偽書説などの問題があり,そんなことにかかわりあいたくなかったからだ。 学者さんたちの論争は,古事記本文の「叙述と文言」をきちんと読んだうえでの議論になっていない。 こうなると,あなたは本当に古事記を読んだのか,という問題になる。私は,古典としての古事記神話の存在意義自体を問うているのだから。 古事記本文の「叙述と文言」を俎上に載せていないわけだから,古事記偽書説をめぐる論争は,成熟した議論ではない。序文だけを切り取って議論しているだけだ。本質的な議論になるはずがない。当たり前のことだ。 私は,何よりもまず,古事記本文の神話が何を語っているのかを知りたかったのだ。古事記序文については,別の機会に考えてみたいと思う。 以上 |
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