日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第71 天孫はどこに降臨したのか


天孫降臨の地の叙述

 さて,天孫が生まれて天子に交替し,道案内役のサルタヒコが登場し,アマテラスゆかりのオールスターキャストが揃い,三種の神宝も調った。

 いよいよ天孫降臨だ。どこに降臨したのだろうか。古事記によると以下のとおり。

@ 「天の石位(いわくら)を離れ,天の八重たな雲を押し分けて,稜威の道別に道別きて(いつのちわきにちわきて),天の浮橋にうきじまり,そり立たして,筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」に天降った。

A ここで天孫が宣言するには,
「此地は韓国(からくに)に向ひ,笠沙の御前(みさき)を眞来通りて(まきとおりて),朝日の直刺す國(たださすくに),夕日の日照る國なり。此地は甚吉き地(いとよきち)」。

 地名は明確である。@の,「筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」。

 そして@の部分は,じつは日本書紀本文や異伝である一書と,ほぼ同じだ。

 ところが古事記には,@の地点に対する評価とも言うべき,Aの部分がくっついている。これがくせ者だ。


意外にも北九州説が有力である

 これが北九州説の根拠となり,議論を混乱させてしまった。

 天孫降臨の地は,韓国すなわち朝鮮半島に向かい,対面した地だというのだ。
 糸島半島説などの北九州説がこれだ。

 その背景には,朝鮮半島の住民が九州を経て日本列島に広まった古き記憶こそが天孫降臨神話なのだという思い入れがある(日本の中の朝鮮・金達寿・72頁以下・講談社学術文庫)。

 また北九州説に肩入れするあまり,日本書紀の叙述の改変とも思える学説さえある。

 日本書紀にいう「膂宍(そしし)の「空国(むなくに)」の実体は「韓国(からくに)」であり,朝鮮蔑視観によってわざと「空(から)」の国,すなわち「空国」と書き,痩せた不毛の地を意味する「膂宍」を付け加えたとするのだ。

 これらの説は,宮崎県や鹿児島県では「韓国に向」かう地域とはなり得ないので,「本来の高千穂峰の原伝承は,韓国に向かう北九州の地域であったとみるべきではないか」と主張する(上田正昭・日本の神話を考える・小学館・158頁)。


北九州説は誤り

 彼らの思い入れに茶々を入れるつもりはない。私は,五穀と養蚕は朝鮮からやって来たし,スサノヲやタカミムスヒさえも,朝鮮からやって来たと考えている。

 しかし,文献の読み方としては,北九州説は,やはり間違いだと言わざるを得ない。

 学者さんの議論には,宮崎県の高千穂町説,鹿児島県の霧島山説,大分県の祖母山説など,諸説がある。

 糸島半島説などの北九州説の人は,「日向」を日向国とは読まず,単に日に向かう場所とし,北九州にそうした地名を求めるようだ。

 いずれにせよ,古事記しか読まない人たちに北九州説が多いようだ。

 上記@こそが,客観的地理的記述なのであり,これは,日本書紀本文,異伝である一書,古事記が,ほぼ一致している。
 それどころか,風土記逸文もこれだ。

 上記Aは,その地点に対する感想,ないし主観的評価にすぎない。

 まずこれを,きちんと把握することが大切だ。


最終的に吾田の長屋の笠狭碕に行ったことは動かせない

 天孫ニニギが最終的にたどり着いた地点から,さかのぼって考えてみよう。

 まず,日本書紀がどうなっているかを検討してみよう。第9段本文はこうなっている。

 「日向の襲の高千穂峯」に天下る。そこから「クシ日の二上(ふたがみ)の天浮橋」から「浮渚在平処」に立たして(浮島の平らなところに降りたって),「膂宍(そしし)の空国(むなくに)を頓丘(ひたお)から国まぎ」とおって,「吾田の長屋の笠狭碕(かささのみさき)」に至る。その地に1人の人がいた。事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)といった。

 最終目的地は,「吾田の長屋の笠狭碕」である。


古事記も同様だ

 古事記はこうなっている。

 古事記は,いわゆる「国まぎ」の部分を,天孫が荒野をうろつくことなどあり得ないという,「誇り高き理由」で無視しているが,降臨後,最終的には「笠沙の御前(みさき)」に至ったことについては,間違いない。

 この「笠沙の御前」で,天孫ニニギは「神阿多都比賣(かむあたつひめ)」,すなわち「木花の佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)」を娶るのだから,「笠沙の御前」は,「阿多」の「笠沙の御前」ということになる。


神武「東征」の出発点も吾田だ

 そして,天孫ニニギの子孫,神武天皇も,ここから「東征」に出発する。

 その神武天皇は,「日向(ひむか)に坐しし時,阿多の小椅君(をばしのきみ)の妹,名は阿比良比賣(あひらひめ)」を娶ったのだった。

 そして,「日向より發(た)たして筑紫に幸行(い)でましき」となり,東征物語が始まるのだった。

 だから結局,古事記も,「日向」の「阿多」の「笠沙の御前」が最終目的地だったことになる。

 しかも,「日向より發(た)たして筑紫に幸行(い)でましき」なのだから,南九州である。
 決して,北九州ではない。

 その場所は,鹿児島県の薩摩半島西南部にある,加世田市付近だといわれている。
 「長屋」という地名は,加世田市と川辺郡との境にある長屋山に,その名を留めている。

 この近くの岬といえば,川辺郡西端にある野間岬ということになる。


吾田に至るまでは膂宍の空国(ひとっこひとりいない僻地)を通った

 吾田から,叙述をさかのぼって,考えてみよう。

 第9段本文によれば,天孫ニニギは,
 「膂宍の空国(そししのむなくに)」を,「頓丘(ひたお)から国覓ぎ(まぎ)行去りて(とおりて)」,すなわち丘続きの所(頓丘)を国を求め歩いて,「吾田の長屋の笠沙碕」にやって来た。

 そこで初めて,「事勝国勝長狭」という,1人の人間に会ったのだった。

 すなわち,降臨した「日向の襲の高千穂峯」から,事勝国勝長狭に出会った「吾田の長屋の笠沙碕」までは,国を求め歩いたが人も国も何もなかったということになる。

 降臨地の周辺は,吾田まで延々と,とんでもない僻地が続いていたことになる。
 日本書紀は,それを「膂宍の空国(そししのむなくに)」と呼んでいる。

 北九州は,文化の中心地であり,人口の密集地帯だ。ここに降臨したとしたら,南九州の吾田に来るまで,国も人もない不毛の地が続いていたという叙述ができないはずだ。


「膂宍の空国」はどこか

 「膂宍の空国(そししのむなくに)」とは何だろうか。

 「膂(そ)」は膂力(りょりょく)ともいうように,背骨のこと。
 「宍(しし)」は肉。

 したがって,背中の骨に付いているはずの肉(膂宍)が「空」しい(むなしい),すなわち,痩せて不毛の国という意味だ。

 解釈が難しい文言だが,じつは,日本書紀自身が説明してくれている。

 仲哀天皇は,熊襲(くまそ)を討とうと考える。
 しかし神は,神功皇后に神懸かりして言う。「天皇,何ぞ熊襲の服(まつろ)はざることを憂へたまふ。是,膂宍の空国ぞ。豈,兵を挙げて伐つに足らむや」。

 すなわち,痩せて荒れ果てた,征服する価値のない国,熊襲よりも,宝の国新羅を討つべしと言うのだ(仲哀天皇8年9月)。

 ここで「熊襲」の地は,「膂宍の空国」とされている。

 また異伝ではあるが,こうもある。
 熊襲の国は,たとえば「鹿の角の如し。無実(うつけ)たる国なり」(神功皇后摂政前紀)。


途中にあった「膂宍の空国」は熊襲の国

 すなわち「熊襲」は,中が空洞になっている鹿の角のように,中身のない国であるというのだ。これが「空国(むなくに)」の意味だ。

 「熊襲」の地は,「膂宍の空国」であり,「鹿の角」のように「無実(うつけ)たる国」だったのだ。

 天孫ニニギは,「日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峯(たかちほのたけ)」に降ったのだった。その周辺は,「膂宍の空国」だった。

 それは,日本書紀の叙述からすれば,「熊襲」の地と考えられよう。

 そして,「熊襲」の「熊」は,肥後国球磨郡(熊本県球磨郡人吉市)である。
 「襲」は,大隅国贈於群(鹿児島県曽於郡西部,姶良郡東部,国分市)である。

 すなわち「熊襲」とは,肥後の球磨と大隅の贈於を意味する。
 天孫は,ここを通ってきたことになる。


日本書紀第9段本文の結論

 「日向の襲の高千穂峯」に降臨した天孫は,「クシ日の二上(ふたがみ)の天浮橋より,浮渚在平処(うきじまりたいら)に立」った。そして,膂宍の空国を放浪したのだった。

 「天浮橋」は,天から地に降る時に伝ってくる橋だ。
 「浮渚」は,海岸の渚を示しているのだろう。山に降臨した天孫が,天の浮き橋を通って,渚のある海岸に至ったという意味だろうか。

 結局,天孫ニニギは,

@ 日向の「襲の高千穂峯」,すなわち宮崎県と鹿児島県の県境にある高千穂峰に天降り,

A 「膂宍の空国」,すなわち熊襲の地,肥後の球磨と大隅の贈於を,国を求めてさまよい歩き,

B 「吾田の長屋の笠沙碕」,すなわち鹿児島県の薩摩半島西南部にある加世田市付近にある野間岬まで行き,

C そこでやっと,事勝国勝長狭に出会ったことになる。


風土記逸文の叙述

 じつは風土記に,かなりの資料が残っている。いくつか引用してみよう(ページ数は,すべて,小学館の新編日本古典文学全集・風土記・上垣節也校注による)。

@ 「日向の曽(そ)の峰に天降り坐しし神」(山背の国風土記逸文,437頁)

A 「日向の国に韓(から)のクシ生(くしぶ)の村といふ所あり」(筑紫の国風土記逸文,534頁)

B ニニギが,「日向の国贈於の郡(こおり),高茅穂のクシ生(くしぶ)の峰にあまくだりまして,これより薩摩の国閼駝(あた)の郡の竹屋の村にうつり給て」(同逸文,535頁)

C 「高千穂の岳は日向の国にあり。風土記に云ふ」。ニニギが,「日向の高千穂の二上(ふたがみ)の峰に天降りましし時」(日向の国風土記逸文,557頁)


風土記逸文からも明らかであり議論の余地はない

 「日向」は,日に向かう場所ではなく「日向国」だ。

 その「贈於の郡」には,「韓」の国から渡来した人がつくる,「クシ生」の村があり,その近くに「クシ生の峰」があり,天孫はそこに天降った。

 それは,「日向の曽(そ)の峰」とも,「高茅穂のクシ生(くしぶ)の峰」とも,日向国の「「高千穂の岳」とも,「日向の高千穂の二上(ふたがみ)の峰」ともいう。

 そこから,薩摩国にある「閼駝(あた)の郡の竹屋の村」まで移動した。

 これらは,「吾田(あた)の長屋の笠沙碕(かささのみさき)」に至ったという日本書紀本文の叙述と,きれいに整合する。

 「長屋」は,竹が多い場所であり,「竹屋」ともいう。

 「クシ日の二上(ふたがみ)の天浮橋より,浮渚在平処(うきじまりたいら)に立たして」という点も,「クシ生(くしぶ)の村」の近くにある「高茅穂のクシ生(くしぶ)の峰」という地名で,裏付けられている。

 風土記逸文は,日本書紀第9段本文の叙述を,完璧に裏付けている。


朝鮮との関係まで明らかにされている

 それどころか,「韓」,すなわち韓の国との関係まで明らかになるという,おまけまでついた。

 朝鮮との関係が,極めて濃厚である。

 日本書紀の記述が広まり,こうした叙述が風土記に残されたのだろうか。

 風土記は,713年の詔により撰上された。実際の撰上の時期が問題だが,日本書紀が成ったのは720年。

 ほぼ同時代の書物が一致しているのだ。


日本書紀第9段本文と一書を比較してみる

 さて,日本書紀の異伝である一書はどうなっているかという問題が残っている。

第9段本文:「日向の襲の高千穂峯」に天下る。そこから「クシ日の二上(ふたがみ)の天浮橋」から「浮渚在平処」に立たして(浮島の平らなところに降りたって),「膂宍の空国を頓丘から国まぎ」とおって,「吾田の長屋の笠狭碕」に至る。その地に1人の人がいた。事勝国勝長狭といった。

第1の一書:「筑紫の日向の高千穂のクジ触峯(くじふるのたけ)」

第2の一書:「日向のクシ日の高千穂の峯」に天下って,「膂宍の胸副国を頓丘から国まぎ」とおって,「浮渚在平地」に立たして(浮島の平らなところに降りたって),そこで国主事勝国勝長狭を召して,……。

第4の一書:「日向の襲の高千穂のクシ日の二上峯(ふたがみのたけ)の天浮橋」に至って,「浮渚在平地」に立たして(浮島の平らなところに降りたって),「膂宍の空国を頓丘から国まぎ」とおって,「吾田の長屋の笠狭の御碕」に至る。その地に1人の神がいた。事勝国勝長狭といった。

第6の一書:「日向の襲の高千穂の添山峯(そほりのやまのたけ)」に天降った,…云々。「吾田の笠狭の御碕」に至る。そして「長屋の竹嶋」に登った。そこに1人の人がいた。事勝国勝長狭といった。


第9段の一書を検討してみる(1)

 本文と第4の一書は,ほとんど同じだ。

 高千穂の峯に降りたって,クシ日の二上というところにある天浮橋に行ったのか(本文),高千穂という地域内にあるクシ日の二上峯に降りたって,そこにある天浮橋に行ったのか(第4の一書),という違いにすぎない。

 いずれにせよ,高千穂という山に降ったか高千穂という地域内にある山に降ったかという違いにすぎない。

 第1の一書は情報量が少ない。

 しかし高千穂という地域にある「クジ触峯」という山に降り立ったという意味だろう。

 この異伝は,サルタヒコなどの叙述に気が向いており,降臨の地の叙述には,極めて冷淡な異伝だ。

 とにかく,高千穂という地域内にある山に降ったことに変わりはない。


第9段の一書を検討してみる(2)

 第2の一書は,高千穂に「クシ日」という形容詞がついている。

 これは,本文の「二上(ふたがみ)の天浮橋」や第4の一書の「二上峯(ふたがみのたけ)」についている形容詞「クシ日」と同じだ。

 これは,奇霊(くしひ)であり,今で言えば,霊験あらたかな,というほどの意味だろう。だから,叙述の大筋の意味には無関係だ。

 結局天孫ニニギは,日向の「高千穂峯」に天降ったことになる。
 その点では,本文と同じだ。

 ただ,「クシ日の二上(ふたがみ)の天浮橋」に至るという叙述が抜けている。


第9段の一書を検討してみる(3)

 一番大きな違いは,「膂宍の胸副国を頓丘から国まぎ」とおって,「浮渚在平地」に立たして(浮島の平らなところに降りたって)という部分が,本文や第4の一書とは逆になっている点だ。

 「浮渚在平地」という部分が難解で,「浮渚在」という部分は海浜を思い起こす。

 もしこれが海だとすると,国まぎ通った結果海浜に至ったのか,海浜から国まぎ通っていったのかという違いになる。

 ただ,至った地名が叙述されていないが,とにかく,結局のところ事勝国勝長狭に会っているのだから,吾田に至ったという点では同じだ。
 その経路が違うというだけだ。

 いずれにせよ,降臨の地が「高千穂峯」である点において,本文と同じだ。

 第6の一書は,日向にある襲という地域の高千穂という地域にある「添山峯」に降ったと述べている。

 これも,高千穂という地域にある山に降ったという点では,本文と同じだ。

 ただ,吾田で事勝国勝長狭に会ったのが,「長屋の竹嶋」であるという点が詳しい。


日本書紀第9段本文も一書も一致している

 結局,以下のとおりだ。

@ 「日向の襲の高千穂」にある山に降り,

A そこから天浮橋を使ったか否かは別として,とにかく「膂宍の空国」または「膂宍の胸副国」を,国を求めてさまよい歩き,

B 「吾田の長屋の笠狭碕」に至って事勝国勝長狭に出会った。

 これが,最大公約数となる。

 本文の「高千穂峯」を,そうした固有名詞をもった山と解するのではなく「高千穂にある峯」と解すれば,本文の叙述に一致することになる。

 日本書紀の異伝である一書は,本文に一致している。

 天孫降臨の地としては,日本書紀本文で事足りることになる。もう少し補足するならば,「筑紫の日向の襲の高千穂にある山」,ということになるだろう。


客観的地理的な地点としては古事記も矛盾していない

 さて,問題は古事記だった。もう一度引用しよう。

@ 「天の石位(いわくら)を離れ,天の八重たな雲を押し分けて,稜威の道別に道別きて(いつのちわきにちわきて),天の浮橋にうきじまり,そり立たして,筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」に天降った。

A ここで天孫が宣言するには,
 「此地は韓国(からくに)に向ひ,笠沙の御前(みさき)を眞来通りて(まきとおりて),朝日の直刺す國(たださすくに),夕日の日照る國なり。此地は甚吉き地(いとよきち)」。

 @こそが,客観的地理的地点を示す叙述だった。

 「天の浮橋にうきじまり,そり立たして」という点が,いの一番に出てくる。日本書紀本文では,高千穂峯に降ったあとの叙述だった。

 古事記は,「天浮橋」を,天上界と天の下をつなぐ橋だと考えているようだ。そう考えれば筋が通る。

 そして,肝心の降臨の地は,「筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」であり,高千穂という地域内の山であることに変わりはない。

 だから,天孫降臨の地に関する古事記の客観的な叙述も,「筑紫の日向の襲の高千穂にある山」とする日本書紀と同一なのだ。


古事記の「韓国に向ひ」という部分は降臨の地に対する評価に過ぎない

 ところが古事記には,Aの部分がくっついている。

 その,「此地は韓国(からくに)に向ひ」という部分が,混乱をもたらす元凶となった。

 しかし,Aの部分は,客観的な降臨の地,「筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」を叙述した後の,その地に対する主観的評価に過ぎない。
 上記2つの部分を,このように分析することが基本だ。

 ここらへん,「叙述と文言」を,慎重に読まなければならない。


「笠沙の御前を眞来通りて」という古事記の「叙述と文言」が大切だ

 しかも,焦点となっているAの部分に,「笠沙の御前(みさき)を眞来通りて」とあるとおり,「笠狭碕」が出てくる。

 古事記は,「吾田の長屋の」という部分を注意深く消しているが,天孫は結局,「笠沙の御前に麗しき美人」,すなわち神阿多都比賣(木花の佐久夜毘賣)に出会う。そこから,日本書紀と同様の日向神話が始まる。

 「阿多」の「笠沙の御前」で,美人の姫に出会うのだ。

 だから,Aの部分も,「吾田の長屋の笠狭碕」に至ったという日本書紀第9段本文と,何ら違うところはない。

 Aの部分にも,客観的地理的な記述がある。これを読み落としてはならない。


北九州説がよって立つ根拠は結局これだけ

 すると,残った記述はこれだけになる。

 「此地は韓国に向ひ」。という主観的評価の叙述。
 たったこれだけなのだ。

 しかし,海を隔てて韓国に向かう必要はない。離れているところからでも,韓国に向かうことはできる。

 壬申の乱の時,天武天皇が行ったように,いつでもどこでも,伊勢神宮に向かうことはできる。

 また,「朝日の直刺す國,夕日の日照る國なり。此地は甚吉き地」というのは,どこにでもある。「吾田の長屋の笠狭碕」だって,そう言えるだろう。


「此地は韓国に向ひ」という叙述はたんなる修辞

 「此地は韓国(からくに)に向ひ,笠沙の御前(みさき)を眞来通りて(まきとおりて),朝日の直刺す國(たださすくに),夕日の日照る國なり」。

 これは,結局,この土地は,一方で韓国に向かっており,一方で,笠沙の御前を通って朝日が真っ直ぐ差すし,夕日が照る国である,という程度の意味だろう。

 吾田のような西海岸には「朝日の直刺す國」はあり得ないという人がいるかもしれない。

 しかし,雄略記の歌にこうある。

 「纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮 夕日の 日光(ひがけ)る宮」。

 纏向の宮とは,景行天皇の宮殿のことだ。
 古事記は,大八洲国を平定した景行天皇を讃えて,その宮をこう呼んでいる。

 要するに,朝日も夕日も照るという表現は,輝かしいという程度の「修辞」にすぎない。


文献はきちんと読むべし

 古事記ライター自身が,雄略記の叙述では,単なる修辞であり地理的説明ではないと述べているのだ。

 北九州説は,主観的評価の叙述である「韓国に向ひ」という文言にだけ惹かれた学説にすぎない。
 しかも,古事記の他の叙述との比較を無視している。

 文献の解釈としては,いかにも筋の悪い解釈だ。そこに「飛びついた」という観がある。

 日本書紀と古事記の神話全体をきちんと読まないと,こうなる。


韓国(からくに)という国はない

 北九州説が成り立ち得ない理由は,以上で十分だろう。

 ここで,学者さんの説に反論しておこう。

 「膂宍(そしし)の「空国(むなくに)」の実体は「韓国(からくに)」であり,朝鮮蔑視観によってわざと「空(から)」の国,すなわち「空国」と書き,痩せた不毛の地を意味する「膂宍」を付け加えたとする,北九州説だ(上田正昭・日本の神話を考える・小学館・158頁)。

 そもそも,朝鮮半島に「韓国(からくに)」があったのだろうか。
 「国」という観念があったのだろうか。

 神功皇后摂政50年5月には,「海の西の諸(もろもろ)の韓(からくに)を」という表現がある。

 「からくに」というルビに惑わされてはならない。
 問題は,「韓」という一語でしかない点だ。決して,「韓国」ではない。


「韓」はあるが「韓国」はない

 ここでは,朝鮮半島にあるいろいろな町や村,誤解を恐れずに言えば,土豪の支配する村落共同体1つ1つを,韓(から)と呼んでいるのだ。

 それが,「海の西の諸(もろもろ)の韓(から)」なのだ。

 要するに,多数の「韓」があるだけであり,「韓国」という,1つのまとまった「国」があったのではない。

 上記した学者さんは,「国」の成立という歴史的観点が,曖昧のようだ。

 くどいようだが,当時の人々にとっては,「韓」という観念があるだけであって,朝鮮半島に,「韓国」という「国」があるなどとは思っていなかった。

 「国」というまとまった観念が認識されるのは,はるか後代である。


「三韓」という文言の前提は「韓」であり「韓国」ではない

 また,神功皇后摂政前紀には,新羅を征服したら,その勢いで高麗(高句麗のこと)と百済まで服従してきたとして,「是(これ)所謂(いわゆる)三韓(みつのからくに)なり」,という叙述がある。

 「三韓」は,正確に言えば「みつのから」だ。そのほうが誤解を招かない。

 それはいいとして,とにかくこれら3国をひっくるめて「三韓」と呼んでいる。
 あまたある「韓」という単位のうち,特に有力な「三韓」という,言葉の使い方である。

 この表記の前提となっているのは,やはり,ひとつひとつの単位が「韓」であるという認識であり,当時の朝鮮半島に,「韓国」があったというとらえ方ではない。


同じ文言がいっぱいある

 応神天皇9年も同様だ。

 忠臣として称えられた武内宿禰(たけしうちのすくね)は,その弟により,「筑紫を裂きて,三韓を招きて」,天の下を奪おうとしているとの讒言にあう。

 ヤマトを中心とした政治権力にとって,筑紫は,場合によっては,朝鮮について反逆するかもしれない地域だった。

 ここから,北九州が,今でいう日本の一部だったのか朝鮮の一部だったのか,わからなかったという情勢が見て取れる。

 それはいいのだが,とにかくここでも,「三韓(みつのからくに)」であり,「韓国(からくに)」という文言は使っていない。

 顕宗天皇3年4月もまた,紀生磐宿禰(きのおいわのすくね)が「三韓に王(きみ)たらむ」として,自ら神聖(かみ)と名乗ったという話を載せている。

 仁徳天皇即位前紀には,「韓国」の用例がある。
 しかし,全体としては,韓国というよりも三韓という用語を使っていた。

 「韓」は,朝鮮半島全体の表示ではなく,朝鮮半島にある,ひとつひとつの共同体を指しているのだ。

 そのうちの有力な「韓」として,「三韓」という表現も出てきたのだろう。

 とにかく,朝鮮半島全体を包括する,「韓国(からくに)」という概念はない。


「韓人」という文言

 応神天皇7年には,倭にやって来た朝鮮半島の人々が羅列されている。

 それは,高麗人,百済人,任那人,新羅人だった。日本書紀は,これらを「諸(もろもろ)の韓人(からびと)」と記述している。

 「韓」は,やはり朝鮮半島の各地を指している。朝鮮半島全体の1つのまとまりとしての「韓人」ではない。

 だからこそ,「諸(もろもろ)」の,「韓人(からびと)」なのだ。
 「韓国の人」ではない。


「添山峯(そほりのやまのたけ)」も根拠にならない

 北九州説の背景となっているのが,第9段第6の一書の,「日向の襲の高千穂の添山峯」だ。

 「添山峯(そほりのやまのたけ)」の「そほり」は,新羅の王都であるというのだ。

 しかし日本書紀編纂者は,第9段第6の一書を本文に採用しなかった。

 仮に「添山峯(そほりのやまのたけ)」という部分がソウルを意味するとしても,もともと朝鮮半島からやって来た渡来人が今の九州全体に跋扈していたのだから,おかしくも何ともない。

 南九州説とは矛盾しないのだ。

 私は,第6段第1の一書について述べたとおり,アマテラスは吾田にいた海洋神であり,タカミムスヒは朝鮮から渡ってきた神であると考えている。

 タカミムスヒの天孫が,筑紫洲の宇佐を通ってやって来たと考えている。

 だから,南九州に,朝鮮にちなんだ名前の山があっても,何の不思議もない。北九州であるべき積極的理由にはならない。

 天孫降臨は,じつは,タカミムスヒとその子孫の降臨話なのだ。だからこそ日本書紀の天孫降臨は,タカミムスヒが主役で,真床追衾というアイテムが中心である。

 アマテラス中心の天孫降臨は,異伝中の異伝である。


渡来人の上陸地点と天孫降臨の場所は別だ

 北九州の糸島半島にある平原古墳では,八咫鏡といわれる大鏡が出土しており,これについて森浩一は,八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され,他の同類は破砕されたが,一面だけが近畿地方にもたらされて八咫鏡とされたと述べている(森浩一・日本神話の考古学81頁・朝日新聞社)。

 確かにそうなのだろう。

 しかし,渡来人の上陸地と,天孫降臨の地をオーバーラップさせようとするから,議論が混乱するのだ。

 天孫降臨の物語は,所詮フィクションだ。朝鮮からの渡来を,象徴的に語ったお話でしかない。

 現実の上陸地点とは,何の関係もない。

 朝鮮からの渡来人は,遙か昔から徐々にやって来て,九州各地に定住したのだろう。そりゃ確かに,北九州を経由したのだろう。

 一方,@神は高い山の上に降臨する,A人々がいつき祭る神はその本貫地の近くに降臨する,という2点を考えるべきだ。

 朝鮮から渡ってきた人々は,農耕や漁労の適地を求めて九州の地をさまよい,定住し,そしてその地で,自らの来歴を示す神話を作り始める。
 降臨するのは,定住地に近い高峰であり霊山だ。

 天孫ニニギが,結局,南九州の吾田に住み着いたことは確かだ。北九州では,あまりにも遠すぎる。


北九州説再論

 朝鮮半島にいた人々が,九州等を経て日本列島に広まっていった。その古き記憶こそが天孫降臨神話なのだという点には,私は反論しない。

 むしろ,後に日向神話を検討するときに述べるとおり,同意するくらいだ。そんなものだろうと思っている。
 こうした認識をもつことこそが,日本と朝鮮のゆがんだ歴史を見直す根本的な視点であるとさえ思う。

 なぜ朝鮮侵略や朝鮮差別があったのか,日本に文化をもたらした国を蔑視するゆがんだ歴史が,なぜあり得たのか。

 歴史を学ぶということには,ゆがんだ歴史を作り出した近視眼的な観念を正し,原点に戻った新たな視点を学ぶという側面がある。

 当時は,日本の国も朝鮮の国もない時代だ。

 国境も税関もパスポートも何もない。
 朝鮮から出雲を経て越の国までの交易圏と,朝鮮と筑紫の交易圏とがあった。

 当時は外海に出られる立派な船がないから,できるだけ沿岸ぞいに,1昼夜単位で航海をしていた。そのために港(水門)が発達し,そこに拠点を作った。港を中心に栄えた町だ。

 それを,国と呼んでいた。都市国家というよりも,村落共同体のようなものであろう。

 とにかく,交易のために朝鮮からやってきた人々が,こうした拠点に永住し,あるいは自ら拠点を作って子孫を残しても,何の不思議もない。

 むしろ自然だろう。

 面を支配する統一国家などないから,その交易圏の中を,人々は自由に往来していた。

 その根拠は,日本書紀を読むだけでもいっぱい見つかる。風土記にもいっぱいある。
 ところが古事記だけは,そうした痕跡を,きれいに払拭しようとしている。そこが,古事記のいけ好かないところだ。

 しかし,北九州説は,文献上成り立たない。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 「初版」 はこちら



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