日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第20 大道芸人の紙芝居としての古事記


正々堂々「伊邪那伎大神」

 さて,イザナキの禊ぎの場面に出てきた「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」から,日本神話の故郷を探る話に深入りしてしまった。
 古事記の禊ぎの場面に戻ろう。

 禊ぎの場面は,「ここをもちて伊邪那伎大神詔りたまひしく」で始まる。

 ここにまた,笑うべき事態が生じてしまった。

 それまでの,黄泉国の物語では,一貫して「伊邪那岐命」だった。

 それが突然,「大神」ときた。
 これから,輝かしくも偉大なアマテラスら3神を産むからだ。

 ただ,生んでいる途中は「伊邪那岐命」に戻る。しかし,泣くスサノヲを叱責して追放する場面では,「伊邪那伎大神」に戻る。


少々あさましくはないか

 ここまでくると,私は,古事記ライターに,あさましささえ覚えてしまう。

 神世七代として登場した場面では,神々(こうごう)しくも「神」。

 修理固成の命令を受けるところでは,天つ神の下働き,将棋の駒だから「命」。

 その後ずっと「命」で通すが,イザナミについては,カグツチを生んで神去る(かむさる)あたりは「神」。

 その後「命」に戻って,最後は「黄泉津大神(よもつおおかみ)」となるのだった。

 これに合わせるように,イザナキも,最後の禊ぎの場面では「大神」となるのだ。


本当に素朴な伝承なのか

 これは,決して,素朴なそのままの伝承,混乱したままの伝承を伝えたのではない。
 素朴な伝承は,伝承の過程で鍛えられている。「おじいちゃん,それおかしいよ。」という,子供のひとことで鍛えられているから,こんな混乱はありえない。

 意図的な古事記ライターが,それなりに一貫した叙述をしたのだ。古い伝承を基に,リライトした痕跡である。

 一方,日本書紀の「神」と「大神」の使い分けは厳密だ。「大神」としていつき祭られているのに,「神」とか「命」とか呼んでしまうと,いつき祭っている人たちが怒る。

 官撰の歴史書にくっついた神話なのだ。いい加減にすると,史書としての信用性がなくなってしまう。だからこそ厳密である。

 これに対し古事記は,叙述上の役割に応じて,巧妙に使い分けている。

 しかし,そんな大上段の話をしなくても,普通の人だって,「命」をいきなり「大神」に昇格させることはしないだろう。日記に登場するA君B君が,話の途中でいきなりA様B様と呼ばれるようなもんだ。

 日記を書いた人は分裂気味ではないか,と疑われかねない。


古事記を笑わずにまともに考えてみる

 ここまでくると,この古事記の「叙述と文言」を,さすがに真面目に考えてみようという気になる。

 いままでを振り返ってみる。

 「命」と「神」の使い方がめちゃくちゃである。

 アマテラスは,生まれた初めから,いきなり「大御神」である。

 コトシロヌシの表記は,「八重言代主神」 → 「八重事代主神」 → 「事代主神」 → 「八重事代主神」と,節操なく転々とする。

 「鹽(しお)こをろこをろに」かき混ぜてという,祝詞感覚。

 それと同様に,「吾が身は,成り成りて成り合はざる處(ところ)一處あり」,「いなしこめしこめき穢き国」,「吾は子を生み生みて,生みの終(はて)に」,「玉の緒もゆらに取りゆらかして」,「さ噛みに噛みて」,「神集ひ(つどい)集ひて」,「内抜きに抜きて」,「根こじにこじて」,「神逐らひ(かむやらい)逐らひき」,「内はほらほら,外はすぶすぶ」,「稜威の道別に道別きて(いつのちわきにちわきて)」,「打竹の(さきたけの),とををとををに」。


「葦原中国」という呼称

 たとえば,「葦原中国」という「文言」を考えてみよう。

  第9段本文   「葦原中国」
  第1の一書   「豊葦原中国」
  第2の一書   「葦原中国」
  第6の一書   「葦原中国」

  古事記     「豊葦原之千秋長五百秋之水穗国
           (とよあしはらのちあきのながいほ
           あきのみづほのくに)」
           ただし,他は「葦原中国」で通す。

 これには説明がいる。

 古事記の「豊葦原之千秋長五百秋之水穗国」という,いかにも仰々しい表現は,国譲りという名の侵略が始まる,いの一番に,2回出てくるだけなのだ。

 他は「葦原中国」で通しており,国譲りという名の侵略が始まると,この表現が2回繰り返されて,また「葦原中国」に戻る。

 これは,明らかに,聞き手を想定した表現である。

 国譲りという名の侵略は,「壮大なる血の交代劇」を描く日本神話の頂点を形成している。
 だから,これが始まる場面で,2発,ぶっ放しているのだ。


古事記は語りの文学ではあるが大道芸人の紙芝居

 古事記を,「語りの文学」という人がいる。古事記を,語って聞かせる相手がある文学であるという点では,納得できるものがある。

 しかし,私に言わせれば,語りの文学ではあっても,「大道芸人の紙芝居」に近い。

 相手は,子供。もしくは,あまり学問のない人。

 場面場面によって,大神になったり,命になったり。祝詞のような言い回しを多用して,とにかく抑揚を効かせて,面白おかしく語る。

 「黄金バット」の紙芝居みたいなもんである。

 古来の伝承を素材に,面白おかしく語ろうとした結果が,上記した混乱した表記になっているのではなかろうか。

 だとすれば古事記は,しょせん「二番煎じ」であり,古来の伝承の資格はない。

 私の記憶を述べておこう。
 古事記ってのは,「鹽(しお)こをろこをろに」で始まるんだ。面白いぞ。

 それが,戦前の教育を受けた人の記憶である。子供相手に,こうしたところを教え込んでいたわけだ。

 古事記の本質は,現代も変わってはいないのだ。

 この先,この論文のいろいろな場面で,「大道芸人の紙芝居としての古事記」に出会うだろう。


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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