日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)

第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)

古事記では冒頭に天子降臨の話がくっついている

 以上を理解したうえで,古事記を読んでみよう。

 命令者が誰かは,日本神話の構造の根幹にかかわる問題である。日本神話の根源に迫ることができると言ってもよい。

 古事記は,ごくごくストレートに,以下のように語り始める。

 「天照大御神の命(みこと)もちて,『豐葦原の千秋長五百秋の水穗国は,我が御子,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の知らす国ぞ。』と言(こと)よさしたまひて,天降したまひき」。

 アメノオシホミミ(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命)は,アマテラスの子だ。
 これは,天孫降臨ならぬ,「天子降臨」だ。

 うん。ストレートである。アマテラス神話を展開しようとしているのだな。


「我が御子の知らす国ぞ」という「言依さし」が中心原理

 一般に,天孫降臨と思われている場面は,古事記では,上記したとおり,「我が御子の知らす国ぞ」という,アマテラス1神の「言依さし」で始まっている。

 タカミムスヒは,まったく関与しない。

 言うまでもなく日本神話は,神武天皇以下の系譜の正当性を,神代までさかのぼらせることによって,主張しようとしたものである。

 その正当性の原理の宣言が,アマテラス1神による「言依さし」,すなわち正当性の宣言なのだ。

 自分の子供が跡を継いでいくという,「血の原理」。これである。

 「言依さし」こそが支配の根源であり,天皇が天皇たるゆえんなのだ。
 それは各豪族による共和制ではなく,中国的な意味での「天命の原理」に裏打ちされた天子でもない。

 「天命の原理」は,正当性を裏付ける原理といっても,じつは,ちょっと違う。
 「天下を乗っ取ったオレが正しい」という,あられもない,丸裸の権力意思を,「天命が移った」と表現しただけのことである。
 それは,主義主張とは関係なく,現代の中国まで一貫している。

 「言依さし」という「血の原理」は,それを乗り越えたところにある。

 そしてここでは,タカミムスヒが,念入りにも排除されている。


天子降臨をはっきりと打ち出す古事記

 天孫降臨や国譲りという名の侵略の前に「天子降臨」があったなんて話は,日本書紀第9段本文にはない。

 古事記ライターは,アマテラスこそが皇祖神だから,その子が降臨するのが原則だ,と考えている。

 しかもその命令は,アマテラス自身によってなされる。

 そしてアメノオシホミミは,スサノヲの子だった。
 その意味で,古事記では,「正当性の契機」も,はっきりと打ち出されている。

 アマテラスとタカミムスヒが,共に命令するのが古事記だという人がいる。しかしそれは,ちょっと違う。

 以下,命令神を調べてみよう。


古事記における命令者(通説的見解)

 「天子降臨」しようとしたアメノオシホミミは,騒がしい葦原中国を見ただけで,何もできずに戻ってきてしまう。

 降臨失敗だ。情けない。

 ならばと,ここから,国譲りという名の侵略の場面となる。

 「ここに高御産巣日神,天照大御神の命もちて」,神々を集め,騒がしい葦原中国をどうするか,協議を始める。

 アメノホヒ(天菩比神=あまのほひのかみ),アメワカヒコ(天若日子=あめわかひこ),タケミカヅチが派遣される。

 こうして,国譲りという名の侵略が成功してから,2回目の「天子降臨」が命令される。

 「ここに天照大御神,高木神(高御産巣日神の別名)の命もちて」だから,ここだけ見ると,2神が共同して命令しているように見える。

 2神並立というのが,通説的見解だ。

 ただ,この途中で天孫が生まれ,「天孫降臨」に転ずる。


古事記における「天子降臨」の叙述構造

 古事記における「天子降臨」の叙述構造をまとめると,以下のとおりだ。

              (命令者)

@ 天子降臨(これは失敗)  アマテラス

A アメノホヒ        タカミムスヒとアマテラス

B アメワカヒコ       タカミムスヒとアマテラス

C タケミカヅチ       「高木神(タカミムスヒ)と」アマテラス

D 天子降臨,転じて天孫降臨 タカミムスヒとアマテラス


日本書紀とはまったく違う叙述構造である

 要するに,アメノホヒら武神の派遣は,一度失敗した「天子降臨」を完遂するために行われるのだ。

 最後にタカミムスヒとアマテラスが並立神のように「天子降臨」を命令する(D)のは,それまで,タカミムスヒが武神の派遣に協力してきた行きがかり上,そうなったというだけのことである。

 そして肝心の「天孫降臨」は,最後にぽろっと,あたかも偶然かのごとく,くっついているにすぎない。

 「僕は降らむ裝束(よそひ)しつる間に,子生(あ)れ出でつ」。
 たったこれだけだ。

 この点が,日本書紀第9段本文とは,決定的に違う。

 一方,日本書紀第9段本文は,テキストの冒頭2行で,早くも天孫ニニギが生まれ,3行目で,「遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて,葦原中國の主とせむと欲す」と,あいなる。

 だから,日本書紀におけるアメノホヒら武神の派遣は,初めから,「天孫降臨」を目的にして行われる。

 このように,叙述の構造がまったく違うのだ。


古事記は「天子降臨」を貫徹しようとする特殊な異伝

 一般に「天孫降臨」,「天孫降臨」といわれており,「天孫降臨」という銘柄の芋焼酎さえある。
 それが,古事記をも含めた,日本神話のスタンダードだと思われている。

 しかし,まったく違うのだ。

 古事記では,アマテラスが1人で「天子降臨」を試みる(上記@)。

 ところが,天子アメノオシホミミは,騒がしい葦原中国を見ただけで,何もできずに戻ってきてしまうので,タカミムスヒが加わって,まず葦原中国の平定を試みる(上記A〜C)。

 こうして,「高天原」のドンの息子が,安全に降臨できるようになって,再び「天子降臨」が試みられるのだ(上記D)。

 古事記は,あくまでも「天子降臨」を描こうとしている。
 いわゆる,アメノホヒら武神の派遣に関する叙述のすべてが,天子降臨を目指していることがわかる。

 一般に天孫降臨と思われている部分は,すべて,天子降臨に向けての「叙述」なのだ。


古事記の天孫降臨は偶然の所産にすぎない

 くどいようだが,決して,「天孫降臨」ではない。

 ただ,最終場面になって天孫ニニギが生まれ,これが降臨することになるにすぎない。

 いわゆる「天孫降臨」は,古事記においては,付け足りである。ちょっとした偶然なのだ。

 古事記を読めばわかるが,上記@の,最初の「天子降臨」からテキストにして9頁。
 すべて,「天子降臨」に向けた叙述である。

 そして,9ページを費やしたうえで,やはり,再度の「天子降臨」が命令される(上記D)。

 当然だ。最初に「天子降臨」を試みたのだから。


古事記の天孫降臨は「天子降臨に接ぎ木した天孫降臨」

 そのまま話が進めば,これはこれで,筋の通った話である。
 皇祖神はアマテラスだから,「天子降臨」が当たり前である。

 そして,「皇祖神アマテラス」というのであれば,「天子降臨」で話を貫き通すべきであった。

 ところが,最後の最後のどんでん返し。
 最後の数行で,いきなり「天孫降臨」に変わってしまう。

 これは,かなり特殊な「天孫降臨」である。
 「天子降臨」に「天孫降臨」を接ぎ木したような構造である。

 私はこれを,「天子降臨に接ぎ木した天孫降臨」と呼んでおこう。

 やはり古事記ライターは,アマテラスこそが皇祖神だから,その子が降臨するのが原則だ,と考えている。そしてアメノオシホミミは,スサノヲの子だった。

 その意味で,古事記では,「正当性の契機」が貫徹されているといってもいい。

 しかし,何らかの理由で,「天孫降臨」を接ぎ木しなければならなかった。


古事記はアマテラス中心に再構成された新しい神話

 なぜ接ぎ木構造なのか。「天子降臨」に「天孫降臨」が接ぎ木のようにくっついている理由は,どこにあるのか。

 古来の伝承は,タカミムスヒ中心の神話だった。それが日本書紀に残っている。

 古事記の,アマテラス一本主義のような叙述は,後述するとおり,日本書紀の本文や異伝と比較しても,かなり特殊な異伝だ。

 アマテラス一本主義の神話,すなわち古事記の神話は,アマテラス中心に再構成された,かなり新しい神話だと言わなければならない。


なぜ「天子降臨に接ぎ木した天孫降臨」なのか

 その神話の再構成の時,はずせなかったのが,タカミムスヒだ。

 タカミムスヒが,朝鮮から渡ってきて,南九州の吾田で日の神(アマテラス)と混交したことは,すでに述べたとおりだ。

 神武天皇は,日の神神話や,イザナキ・イザナミ神話や,日向神話などとともに,タカミムスヒを背負って,「東征」して,ヤマトに入った。

 そこで,日の神は,その地方にいたアマテラスに変貌した。

 それと共に,このアマテラスとの関係を作らなければならない。

 しかも,本来の命令神,権威的,権力的,支配的な命令神は,タカミムスヒだった。

 タカミムスヒがアマテラスに結びつくことができるのは,単なる系図しかない。何度も言うとおり,タカミムスヒは,天孫の父親という関係で,アマテラスとつながっているにすぎない。

 私はそれを,「アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係」と呼んでおいた。

 タカミムスヒは,系図だけで結びつく。そのためには,天孫ニニギに生まれてもらわなければならない。

 一方,天子降臨は,貫きたい。

 だったら,最後のどんでん返しで,天孫ニニギが生まれてくるとするしかない。

 以上が,古事記ライターの叙述意図だ。


アマテラス一本主義の古事記ライターの悩み

 古事記ライターは,アマテラスを,「天照大神」でなく「天照大御神」と表記する人だった。

 皇祖神アマテラスが確立したあとの人だった。アマテラス信仰が確立したあとの人だった。

 だから,単なる外戚にすぎないタカミムスヒが,国譲りという名の侵略を単独で命令したり(本文,その他の一書),生まれてもいない皇孫に期待して,「吾孫」「吾孫」と呼んでいる(第9段第2の一書)のを,許せなかったのではなかろうか。

 アマテラスによる,本来の「天子降臨」一本槍で叙述してきたが,最後の最後に,タカミムスヒは,はずせなかった。

 そうした,ギリギリの叙述が,古事記における「天子降臨に接ぎ木した天孫降臨」なのだ。

 アマテラスによる天子降臨を貫きながら,ちょろっと最後に,天孫ニニギが生まれたことにして,タカミムスヒを外戚に位置づけるとともに,ニニギによる降臨につなげることができたのである。


天子降臨の本質からすれば命令神はアマテラス1神である

 命令神の整理を再掲しよう。

@ 天子降臨(これは失敗)   アマテラス

A アメノホヒ         タカミムスヒとアマテラス

B アメワカヒコ        タカミムスヒとアマテラス

C タケミカヅチ        「高木神(タカミムスヒ)と」アマテラス

D 天子降臨,転じて天孫降臨  タカミムスヒとアマテラス

 一見して,@以外は2神が並立している。古事記における命令神は,アマテラスとタカミムスヒが対等であるかのように見える。

 しかし,叙述の流れをしっかりと把握すると,本質的な命令神は,やはりアマテラス1神だけであることがわかる。


タカミムスヒの立場は単なる他人

 ここでタカミムスヒの立場を図示しておこう。以下のとおりだ。

スサノヲ(男神)
   ↑
   |―(誓約による)―― アメノオシホミミ(男神)
   ↓          ↑
アマテラス(女神)     |
              |―――― ニニギ(男神,Dの時点で出生)
              |
              ↓
タカミムスヒ(男神) ――― タクハタチヂヒメ(女神)

 天孫ニニギは,Dの時点まで生まれていない。だから,タカミムスヒは,天孫ニニギの外祖父でさえない。

 そして,アメノオシホミミの父は,スサノヲである。タカミムスヒではない。タカミムスヒは,アマテラスが再婚した(?)継父にすぎない。

 スサノヲとの誓約の時,すでにタカミムスヒがいたとしても,やはり継父でしかない。

 古代では,女性を中心にたくさんの男がいたから,むしろ,ただの他人だと言ったほうがよいだろう。


アメノオシホミミを「我が御子」と言えないタカミムスヒは第三者

 だから,タカミムスヒが,アメノオシホミミを「我が御子」と呼ぶのは,まったくおかしい。

 「我が御子」と呼ぶのは,アマテラスしかいない。

 だとすると,タカミムスヒは,いかなる立場で国譲りという名の侵略に関与しているのか。
 第三者として,アマテラスの天子降臨に協力しているにすぎないのだ。

 タカミムスヒは,最後の最後に,「僥倖にも」,天孫ニニギが生まれて,その「外祖父」という立場を確保できたにすぎない。そこで初めて,アマテラスから始まる皇統につながることができたにすぎない。

 これは,まったくの偶然だ。この偶然がなければ,タカミムスヒは,皇統につながれなかったはずだ。

 私は,「神話的事実」の問題として「偶然」と言っているのではない。

 古事記ライターの叙述方法の問題として,このような偶然を挿入して,「天孫降臨」を接ぎ木した理由を問うているのだ。

 古事記ライターは,外戚藤原氏を苦々しく思っていた人だったかもしれない。
 だとすると,外戚藤原氏の地位が確立したあとの,かなり新しい成立になる


アイテムとしての真床追衾が忘れ去られる理由

 こうして,タカミムスヒの存在は,限りなく薄くなる。

 ところで「真床追衾」は,生まれたての嬰児,天孫を包んで天降らせるアイテムであった(第9段第4,第6の一書)。

 だから,「真床追衾」は,必ず,「天孫降臨」とともにある。「天子降臨」伝承では,その天子はもはや嬰児ではないから,「真床追衾」が不必要になるのだ。

 このように,アマテラス信仰が強まってくると,「真床追衾」は忘れ去られることになる。

 日本書紀と古事記に散らばっている各種の伝承は,このベクトル上に位置づけられる。


「我が御子の知らす国と言依さしたまへりし」は誰の言葉か

 だから,通説がいうような,2神並立で命令しているのではない。それで終わらせるのは,「言依さし」という本質をはずして,誤解を招く。

 また,「叙述と文言」からしても,タカミムスヒが命令できるわけがないのである。

 古事記におけるアマテラスとタカミムスヒは,決して,対等,並立の関係ではない。

 仮に,2神並立と考えると,以下のような矛盾が出てくる。

 上記Aの部分。タカミムスヒとアマテラスは,葦原中国を平らげる神の選定に入る。

 「ここに高御産巣日~,天照大御~の命もちて,天の安の河の河原に,八百萬の~を~集(かむつどへ)に集(つど)へて,思金~に思はしめて詔りたまひしく,『この葦原中国は,我が御子の知らす国と言依(ことよ)さしたまへりし国なり』」。


2神並立で考えるのは日本語と文法を無視しためちゃくちゃ

 これをどう読むか。

 『この葦原中国は,我が御子の知らす国と言依(ことよ)さしたまへりし国なり』というセリフは,誰のセリフか。

 要するに,タカミムスヒとアマテラスの「命もちて」(ご命令で),オモイカネに思わせて「詔りたまひしく」(おっしゃるには),「この葦原中国は,我が御子の知らす国と言依(ことよ)さしたまへりし国なり」。

 タカミムスヒとアマテラスが一緒に述べた言葉だとすると,「言依(ことよ)さしたまへりし」という敬語の主語が誰なのか,意味が取れない。

 自分が自分に敬語を使っているという,転倒した叙述になってしまう。


タカミムスヒは「言依さし」をする立場にない

 アマテラスではないとすると,タカミムスヒの言葉か。
 皆,何となく,そう思っている。

 タカミムスヒの子はヨロズハタヒメであり,天子ではない。そのヨロズハタヒメに孫が生まれるのは,上記した,Dの時点である。

 アメノホヒを派遣するAの時点では,孫さえも生まれていないのだ。

 タカミムスヒは,アメノオシホミミを「我が御子の知らす国」と言える立場にない。

 誰かほかの神が「言依(ことよ)さしたまへりし」と考えるしかないが,それでは,この部分の意味が,まったくわからなくなる。


「言依さし」はアマテラス自身が述べるもの

 しかし,言うまでもなく「言依さし」は,アマテラス自身が述べるものだ。

 古事記の本質は,「言依さし」にあるといわれている。
 「言依さし」こそが支配の根源であり,天皇が天皇たるゆえんなのだ。

 それは各豪族による共和制ではなく,中国的な意味での天命の観念に裏打ちされた天子でもない。

 そして,古事記本文冒頭に天命の天とも思われる「高天原」をもってくることにより,民意が離反すれば天命が変わるという革命の観念は,念入りに排除されている。

 古事記では,「言依さし」こそが,神と天皇の正当性の根源なのだ。

 だからこそ,上記@の冒頭は,

「天照大御~の命(みことのり)以(も)ちて,『豐葦原之千秋長五百秋之水穗國は,我が御子,正勝吾勝勝速日天忍穗耳の命の知らす國ぞ』と言よさしたまひて,天降したまひき。」である。


いい加減な古事記ライターのいい加減な作文

 私は,古事記ライターの文章作成能力がこの程度だったのだと考えている。

 それを問題にせず,何となく,2神並立で終わらせているのが,日本神話論者や学者さんたちの現状だ。

 この矛盾を解決できていない。

 そして,注釈書を見ても,この矛盾に触れていない。


タカミムスヒ1神のセリフと解釈すべき

 しかし,ただ1つ,解決の道がある。タカミムスヒ1神のセリフだと解釈するのだ。

 上記Aの部分で出てくるオモイカネ(思金神)。これは,タカミムスヒの息子である(日本書紀第7段第1の一書)。

 だから,タカミムスヒが,アマテラスの命令で神々を集め,さらに自分の息子オモイカネに思わしめ,そうして,「この葦原中国は,(アマテラスが)我が御子の知らす国と言依(ことよ)さしたまへりし国なり」と述べた,と読んでみる。

 主語は一貫してタカミムスヒであり,アマテラスに対して尊敬語を使い,「この葦原中国は,(アマテラスが)我が御子の知らす国と言依(ことよ)さしたまへりし国なり」と述べているのである。


ところが天孫ニニギに降臨を命ずる場面が理解できない

 さて,ところがところが,これだけでは終わらないのが,「くせ者古事記」だ。

 ここはこうして解決できるが,天孫ニニギに降臨を命ずる以下の場面はどう読むのか。

 いずれも,「言依さし」にかかわる重大な箇所だ。

 「ここに天照大御神,高木神の命もちて」,アメノオシホミミに「詔りたまひしく」,・・・(降臨を命ずるが,天孫ニニギが生まれる)・・・そして天孫ニニギに「詔科(みことおほ)せて」,「この豐葦原水穗國は,汝(いまし)知らさむ國ぞと言依さし賜ふ。故,命の隨に天降るべし。」と,「のりたまひき」。

 さてさて,いったい誰が「のりたまひき」なのでしょうね。

 「命の隨に天降るべし。」と「のりたまひき」したのは,誰なんでしょうか。

 当然,アマテラスのはずだ。それが「言依さし」の本質だ。

 ところがここでは,「ここに高木神,天照大御神の命もちて」ではなく,「ここに天照大御神,高木神の命もちて」になっちゃってる。

 だから,ここでは,タカミムスヒがアマテラスに尊敬語を使い,「この葦原中国は,(アマテラスが)我が御子の知らす国と言依(ことよ)さしたまへりし国なり」と述べているのである。・・・なんて解釈ができないのだ。

 ではアマテラスか。
 アマテラス自身が,「この豐葦原水穗國は,汝(いまし)知らさむ國ぞと言依さし賜ふ。」と言うのは,理解できない。


よりによって「言依さし」にかかわる部分がめちゃくちゃ

 ことは重大だ。

 ちなみに,たとえばアメワカヒコ派遣の場面では,

 「ここをもちて高御産巣日神,天照大御神,また諸の神等に問ひたまひしく」,とか,「故ここに天照大御神,高御産巣日神,また諸の神等に問ひたまひしく」とか,2神並立で命令したことで,すんなり通る。

 こんなのを読んで,皆さん,「2神並立」を信じているのであろう。

 問題は,最初にアメノホヒに降臨を命ずる天孫降臨の最初の場面と,天孫ニニギに降臨を命ずる場面,この2つの,古事記の本質にかかわるハイライトシーンが,「読めない」ということだ。

 古事記神話の本質,「言依さし」そのものである2つの場面が,「文章としてなっていない」,「日本語として読めない」ということだ。


古事記ライターを見限るしかない

 私は,前者について,善解に善解を重ねて,「タカミムスヒ1神のセリフと解釈すべき」としたが,後者の場面では,アマテラスとタカミムスヒの順序が入れ替わっているため,私の努力が水の泡になる。

 こうなると,古事記ライター自身を疑ってかからねばならぬ。

 「ここに高木神,天照大御神の命もちて」が,「ここに天照大御神,高木神の命もちて」になったのは,古事記ライターの,単なる気まぐれにすぎぬ。
 それを,いちいち真面目に受けとってはならぬ。

 いずれにせよ,両場面とも,日本語さえも通じない文章なのだ。

 古事記ライターは,いかにも「2神並立」という格好を作りたかっただけであり,タカミムスヒを,物語の中に,「適当にぶち込んだだけ」なのだ。

 こう考えた方が,私はすっきりする。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 「初版」 はこちら



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