日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん


4つの別名をもつオオクニヌシ

 古事記における出雲のスサノヲの物語は,オオクニヌシに至る系譜を語ることで,ひとまず幕を閉じる。

 そのオオクニヌシは,
 「大穴牟遲神(おおなむぢのかみ)」,
 「葦原色許男神(あしはらのしこをのかみ)」,
 「八千矛神(やちほこのかみ)」,
 「宇都志國玉神(うつしくにたまのかみ)」という,あわせて5つの名前をもっていた。

 「大穴牟遲神」というのが本来の名前なのだろう。
 「葦原色許男神」とは,葦原中国の屈強な神,
 「八千矛神」とは,武器をたくさん持っている強い武神,
 「宇都志國玉神」とは,顕し国(うつしくに,現実の社会。)を作った貴い神という意味だ。

 オオクニヌシは,こうした別名をもつ,よほどのビッグネームだったようだ。


古事記のお伽噺はオオクニヌシの異名の由来を説明する話(その1)

 日本書紀第8段第6の一書もまた,異名を紹介している。しかし,この点に関しては,古事記の方がマメだ。

 なぜこれだけの異名があるのか。
 古事記は,世上有名なお伽噺を繰り広げることにより,異名の由来を説明しようとする。

 まず,稲羽の素兎(しろうさぎ)の話。古事記ライターは,ここでは「大穴牟遅神」と呼んでいる。次に八十神の迫害の話。ここでも「大穴牟遅神」と呼んでいる。

 次に根の国訪問の話。ここで古事記ライターは「大穴牟遅神」と呼んでいるが,ここで登場するスサノヲはオオクニヌシを「葦原色許男」と呼び,数々の試練を課する。

 数々の試練に耐える屈強な男だからだ。


古事記のお伽噺はオオクニヌシの異名の由来を説明する話(その2)

 そしてスサノヲは,娘を奪って逃げていく「大穴牟遅神」に向かって,「大國主神」となり「宇都志国玉神」となって立派な宮を作って栄えよ,こいつめ,と呼びかける。

 これからは大きな国をつくり,現実の国作りの功労者となって栄えよというわけだ。

 国を作った「大穴牟遅神」は,高志国(こしのくに,今の北陸地方。)のヌナカワヒメ(沼河比売=ぬなかわひめ)に夜這いをかける。

 ここで古事記ライターは,突然,「八千戈神」と呼ぶ。

 強い武力で高志国を制圧したからこそ,堂々と夜這いができるし,美しい姫を自分のものにできるのだ。

 スセリヒメ(須勢理比売)が嫉妬する場面でも「八千戈神」として登場する。


古事記のお伽噺はオオクニヌシの異名の由来を説明する話(その3)

 古事記は,物語によって神の呼び名を変容させながら,その由来を説明しようとしているのだ。そのために,これらのお伽噺が選ばれていると言ってもよいだろう。

 こうしてみると,やはり「大穴牟遅神」「大己貴神」が,古来からの名称だ。他は異名だ。
 そして,数ある呼び名を統合する呼び名として,「大国主神」という名称が使われるようになったのだ。


いわゆる稲羽の素兎以下のお伽噺は神話ではなく創作話

 さて,それはいいのだが,八十神(やそがみ)による迫害をモチーフに,稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)で始まるこの一連の伝承は,古事記ファンがありがたがる,古事記ならではの伝承であり,昔から称揚されてきた。

 しかし私には,とても違和感がある。

 そもそも,この部分が,「故(かれ),この大國主神の兄弟,八十神坐(ま)しき。」と始まっているのが,気にくわない。

 テキストの直前では,スサノヲの子孫を語っていたではないか。
 そこに,「八十神」なんて,出てこない。
 こんな偏屈なことを考えるから,私は古事記が読めないのだ。

 ま,それは,全部記載されていないだけさ,で終わるからいいとしても,稲羽の素兎の話は,要するに,人を騙したら報いがくるという,教訓話だ。

 そして,それを助けたオオクニヌシも,心優しい正直な人間が最後には勝つ,という教訓話だ。

 オオクニヌシをいじめる八十神の話は,悪は滅びるという,これもまた教訓話だ。

 オオクニヌシの根の国訪問話は,若い英雄の通過儀礼という,「できた」お話である。

 そして最後に,出雲の英雄スサノヲの娘をかっさらって逃げていくお話は,現代の映画の材料にもなるだろう。


「神話的事実」が語られていない

 そして,オオクニヌシは,古事記ライターが最後の最後にまとめるとおり,「始めて国を作りたまひき」神となる。

 一貫しているのは,その,国を作った過程やなんやらの,「神話的事実」が,何も書かれていない点だ。
 書かれているのは,稲羽の素兎,八十神の迫害,根国訪問だけだ。
 さらに,ヌナカワヒメやスセリヒメとの歌物語。

 古事記のオオクニヌシ物語には,国作りに関する「神話的事実」がない。オオクニヌシがいかに心優しい善人で,迫害を乗り越えて,いかに英雄となったか,その後いかに色好みだったか,というお話しかない。

 だから,私は,「創作話」と言うのだ。

 「神話的事実」があるかないか。これが分水嶺である。


「神話的事実」がある風土記

 これに対し風土記には,スクナヒコナと一緒に国を作ったことが,具体的に書いてある。

 ここには,スクナヒコナと共に,稲種をまいたりした「神話的事実」が載っている。国引き神話などもある。

 国引き神話ひとつとっても,確かに,荒唐無稽なお話かもしれないが,これこそが,国作りに関する,神話上の「事実」なのだ。

 たとえば国引きという神話が,古代の人にとっては「事実」だったのだ。

 しかし古事記ライターは,「始めて国を作りたまひき」とまとめるくせに,その内容はまったく叙述せず,そうした英雄がいかに形成されたかという,極めて文学的な物語しか書いていない。

 ここらへんがとても胡散臭くて,だから私は,避けて通ってきた。


風土記と古事記との関係も再考を要する

 これは,風土記と古事記との関係,風土記の日本神話における位置関係の問題にもつながる。

 私はこの論文で,日本神話における日本書紀と古事記との,相対的位置関係を論じている。しかしもう1つ,本当ははずせない書物がある。風土記だ。

 風土記について学者さんは,古事記の伝承が風土記に取り入れられたという。それが通説のようだ。

 確かに,成立年代だけ見れば,風土記撰進の命令は713年,出雲国風土記の成立は733年である。古事記成立の712年に遅れている。

 しかし,この成立年代のずれなど,たいした時間ではない。
 神話伝承は,書物の成立年代とは関わりなく,同時代のものとしてあったのだから。

 そして一方,私が何度も指摘してきたとおり,日本書紀編纂者は,古事記を無視している。見ていない。参照していない。
 気比の大神しかり。黄泉国はどこにあるのかという問題しかり。

 日本書紀編纂者という,複数の高級官僚に無視された(つまり国家に無視された)古事記が,官僚を通じてしか文化の交流はできなかったであろう当時,日本全国に広まるとは到底思えないのだ。

 たかだか20年のスパンで,しかも民間のルートで,古事記神話が広まっていったとは,到底思えないのだ。


原典性を獲得しているのはどちらか

 そして,前述したとおり,たとえばオオクニヌシとスクナヒコナの国作りについて,具体的な「神話的事実」を描いているのは風土記だ。
 古事記に登場する神の名の由来を,具体的に説明しているのも風土記だ。

 これに対し古事記は,「神話的事実」をすっぽりと落として,ほとんど何も書いていないと言っていい。

 はっきり言えば,古事記を知っていても,風土記は書けない。

 詳細はおいおい述べるが,たとえば古事記は,「スクナヒコナとの国作り」について,「故,それより,大穴牟遲と少名毘古那と,二柱の神相並(なら)ばして,この國を作り堅めたまひき。」と,抽象的に書くだけである。

 あとは,スクナヒコナの名前がヒキガエルやカカシのおかげで判明したとか,カミムスヒによる,「兄弟となって作り固めよ」との命令があったとか,そんな,周辺の叙述ばかりである。

 「始めて国を作りたまひき」の内容が,八十神をやっつけたというだけであることは,前述した。

 ここに,原典性を獲得しているのは,風土記と古事記のどちらの書物かという問題が生じる。


情報量が落ちた古事記は2次的伝承でしかない

 「神話的事実」をきちんと残している風土記や日本書紀と,それがない古事記とでは,どちらの情報量が多いだろうか。どちらの「神話的事実」が,より鮮明だろうか。

 テレビやパソコンのモニターでいえば,どちらが高精細画像だろうか。どちらが,はっきりくっきりしているだろうか。

 もちろん,風土記や日本書紀である。

 風土記や日本書紀にこそ,原典性がある。
 古事記は,情報量が落ちてぼんやりしている。だから,2次的伝承である。

 だからといって,風土記の後に古事記が成立したというわけではない。そうした短絡を言うつもりはない。

 ただ,同時期の,7世紀,8世紀にあった伝承として,どちらがより鮮明に伝承を残しているかというと,古事記ではなく風土記や日本書紀なのだ。

 こうしたことを考えていく必要がある。


古事記のオオクニヌシ伝承は個人の人格形成史伝承だ

 もちろん学者さんも,「八十神による迫害」になって,突然,語りや雰囲気が変わるとは言っている(西郷信綱・古事記注釈・第3巻・筑摩書房,26頁)。

 しかし,以上私が指摘した点に関する関心はない。むしろ,無頓着だ。

 私に言わせれば,「八十神による迫害」以降,視点は,日本古来の神話の世界から,いきなりミクロの世界,すなわちオオクニヌシ「個人」の,「人格形成史」に転換する。

 しかも,風土記にある,大国主神と少名毘古那神が協力して諸国を回った,どこそこでうんちをした,という神話とも異なる,ロマン的な「人格形成史」伝承だ。


個人の「人格形成史」を語るロマンは本当に古来の伝承なのか

 「個人」の人格形成を物語る伝承。これは,いったい,いかなる時代に語り得たのであろうか。

 こうした「ロマン」。
 私は,天皇は自分を殺す気かと言った,古事記のヤマトタケルを思い出す。

 こうした「ロマン」は,新しいのではないか。
 こうした「ロマン」が,果たして712年に成立し得たのか。
 天皇を公然と批判し,個人の人格形成を語る「口承伝承」が,本当に古来の口承伝承と言えるのか。

 神話伝承の系譜からすれば,かなり新しい伝承ではないのか。

 私は,疑問に思う。

 そして,この異質な伝承をどうとらえるのか。
 これが,根本的な問題なのである。


演劇的という学者さんの説を検討する

 これについて学者さんは,八十神による迫害に始まるオオクニヌシ伝承は,「シャーマン的首長の即位式」が基礎にあり,「この話の展開のしかたがすこぶる演劇に似ている」と指摘している(西郷信綱・古事記注釈・第3巻・筑摩書房,78頁)。

 「シャーマン的首長の即位式」はともかく,演劇的という点は,そうである。オオクニヌシ個人の「人格形成史」を語るロマンであるから,演劇的にもなる。

 演劇的方向に話が振れれば,もはや,「神話的事実」は必要ない。私が指摘したとおり,「創作話」をつなげていけばよい。

 そして,これを演劇的と評価していること自体が,古事記が2次的伝承であることを自白しているようなものである。

 古来の原伝承は,決して,演劇的ではない。原伝承を利用した創作が,演劇なのである。


お伽噺を伝える古事記の方が古いのか

 数々のお伽噺を使って異名を説明している古事記は,一見して,古いお話のように見える。

 しかし,お伽噺の時代性をどうとらえるかという問題がある。

 面白おかしい話,子供向けの話は,しょせんリライト版か,あるいは古来の伝承が咀嚼されたのちに成立するのではないだろうか。

 古来の伝承そのものとは違うのではなかろうか。

 少なくとも,「大国主神」という呼び名の方が新しいのだから,これを基本にしている古事記の方が,新しい時代の感覚で物を書いていると言えるだろう。


お伽噺だから内容はちゃらんぽらん

 お伽噺だから,話の内容はちゃらんぽらんだ。

 八十神の迫害に遭ったオオクニヌシは,やすやすと死んでしまう。神は死なないはずなのに,いったん死んでしまう。

 オオクニヌシの「御祖(みおや)の命」は,泣き憂えて,「高天原」に上って,「神産巣日命」に頼んで,オオクニヌシを生き返らせてもらう。

 死なないはずの神が,死んでまた生き返るという展開。
 国つ神であるはずのオオクニヌシの「御祖の命」が,「高天原」に易々と上り,同族の神かのごとく「神産巣日神」に頼み事をするおかしさ。


話の構成などまるで無視

 古事記ライターは,国つ神よりも天つ神の方が偉いと言いたかったのだろう。そうした,こちこちに凝り固まった観念が,よく感得できる展開だ。

 だが,頭がこちこちだったからこそ,矛盾には気がつかなかった。

 国譲りという名の侵略の前のお話なのだよ。侵略後ならわかるが,侵略前は敵対関係だったのではありませんか。

 侵略前でも平和に行き来していたというのだろうか。

 国つ神と天つ神の対立や,緊張関係はどこへ行った。

 お伽噺だから許されるのか。
 だったら,文献としての価値はないわけだ。

 いずれにせよ,完璧に破綻しているお話だ。ちゃらんぽらんなお話だ。

 何度も言うけれど,こうした,世界観や論理関係が破綻したお話は,古来の伝承の崩壊過程にある伝承であり,神話が腐っていく過程にある。


キサガイヒメとウムギヒメ

 オオクニヌシを助けるのは,カミムスヒが使わした,キサガイヒメとウムギヒメだ。

 赤貝と蛤。日向神話にも鯛が出てくるから,それはまあいい。

 これは,出雲国風土記の島根郡加賀郷と,同じく法吉郷に,地名説話として,具体的な「神話的事実」とともに出てくる。

 これに対して古事記では,突然,キサガイヒメとウムギヒメだ。

 これはやはり,古事記神話が,キサガイヒメとウムギヒメを取り込んで利用したと言った方が無難であろう。
 出雲国風土記の撰者が,古事記にあるキサガイヒメとウムギヒメを取り込んで,地名起源譚に利用したのではない。

 古事記ライターが,風土記を取り込んだのだ。


お伽噺だから矛盾だらけ

 またスサノヲは,いつの間にか,根の堅州国にいることになっている。
 根の堅州国に行きたいとは言っていたが,どこにも,「行った」とは書かれていない。

 古事記ライターは,「行った」の一言を忘れたようだ。

 私は,古事記ライターのこうした態度を,杜撰な編纂態度などと呼んできたが,どうもそれだけではあるまい。

 たとえばここでは,根の堅州国に「行った」と言わなくても,古事記ライターが予想する読者が,了解していたのであろう。
 だから,「行った」ことを当然の前提にして叙述しているのである。

 しかもそこで,「大神」になっている。

 そして,根の堅州国と黄泉国を同視するのであれば,はじめからいたはずの「黄泉神」と,イザナミすなわち「黄泉津大神」(古事記は,イザナミが黄泉国に残って黄泉津大神になったとしている。)と,「大神」たるスサノヲは,いかなる関係に立つのだろうか。

 黄泉国の支配圏をめぐって,血みどろの抗争が始まるのではないか。
 少なくとも,大神や神が並び立つ神社は,あまり聞いたことがない。
 まったくわけがわからない。

 しかし,古事記ライターが予想する読者は,こんな疑問を抱かない人たちなのである。

 それが,古事記周辺の社会的状況だったのであろう。


その他いろいろ変である

 根の堅州国でオオクニヌシは,スサノヲの娘スセリヒメ(須世理毘賣=すせりひめ)と恋愛する。

 しかし古事記は,オオクニヌシの系譜を語るとき,スサノヲから6世代経ていると説明していたはずだ。
 そのオオクニヌシが,スサノヲの娘と恋愛するのだ。

 根の堅州国では,歳をとらないのだろうか。
 黄泉国=死者の国と同視するのだから,歳をとらないのが当然なのか。

 ま,これは,言いがかりめくかもしれない。

 逃げるオオクニヌシに対し,スサノヲは,「底つ石根(いわね)に宮柱ふとしり,高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ」と怒鳴りつける。

 地底の岩に届くように宮殿の柱を太く立て,高天原まで千木を高く届かせる壮大な宮殿を造って,そこにいろ,という意味だ。

 これは,延喜式の祝詞に散見される常套句だ。

 祝詞は,神を祭る儀式の一部だ。神を祭る定型的な文句が祝詞になった。そうした,人間の手垢にまみれた文章だ。これが古事記に使われている。

 稲羽の素兎のお話は,言わずと知れた子供向けのお伽噺であり,史書に掲載される類の話ではない。

 高志國のヌナカワヒメへの求婚,スセリヒメの嫉妬は,読んでわかるとおり,完全に歌物語だ。

 日本書紀は,こうしたお伽噺を,異伝として残していない。神話の公権的公定解釈。公文書。外国に出しても恥ずかしくない神話の編纂を目指した,日本書紀編纂者の見識といえるだろう。


オオクニヌシの神裔はわけがわからない

 スセリヒメの嫉妬の場面に続き,オオクニヌシの神裔が語られる。これだけ子孫が繁栄しましたとさ,というお話だ。

 しかしこれ,一部の神を除いて,ほとんど理解不能だ。
 ここは,学者さんの意見を聞くに留める。

 「このへんの系譜に出てくる神名には,さして深い意味はあるまい。」
 「とにかくあれこれ断片を集めて作った名であることが分かる。」
 「不明,というより無意味な名ではないかと思われる。」
 「この名も思いつきの感を免れない。」
 「女神または巫女の類同的な名にすぎぬ。」
 「これも特別の意味はなさそうだ。」
 「ごく軽い意であろう。」
 「これも何ということのない名であろう。」
 「ただ何となくこう名づけたまでと思う。」
 「ヒルメとあるのでヒバラと来たのだろう。」
 「こうした例は前にもあったし,大して問題とするには当たるまい。」
 「上に見たようにその多くは語呂あわせによるか,オートマチックな連想になるものであり,名義も不詳である。」

      (西郷信綱・古事記注釈・第3巻・筑摩書房,161頁以下)


古事記は古来の伝承の二番煎じどころか適当な改悪

 なんともはや,いい加減な古事記ではある。

 古事記は神々のカタログを示しているというのが私の主張だったが,こうなると,テキトーな思いつきで,「語呂あわせによるか,オートマチックな連想」から出来上がった神も多いらしい。

 愚痴はよして,ひとつだけ言っておこう。

 ではこの学者さんは,いつ誰がどのように,「語呂あわせによるか,オートマチックな連想」で,こうした「語り」を作り上げたと言うのだろうか。

 古事記には,「今」という言葉が出てくる。この部分で言えば,「高日子根神は,今,迦毛大御神(かものおほみかみ)と謂ふぞ。」の「今」だ。

 古事記という伝承が成ったときの「今」なのか,古事記撰述の「今」なのか,712年の撰録の「今」なのか。それとも,その「今」とは関係がないのか。

 「今,迦毛大御神(かものおほみかみ)と謂ふぞ。」の「今」であれば,鴨の大神が「大御神」と言われるようになってからの「今」であろう。

 これも,面白いテーマを与えてくれるはずだ。助手論文になりそうだ。

 だが私は,そんな論文を書こうとは思わない。
 少なくとも,こんな適当な神名を並び立てる古事記が,古来の伝承の二番煎じどころか,適当な改悪であると考えているからだ。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

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