日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第41 天の石屋戸と祝詞


アマテラスは高天原も葦原中国も照らす大御神である

 さて,古事記に戻って,話のあらすじを追おう。
 スサノヲの乱暴に驚いたアマテラスは,天の石屋戸に隠れる。

 その結果,「ここに高天の原皆暗く,葦原中國悉に闇(くら)し。これによりて常夜(とこよ)往きき。ここに萬の~の聲はさ蝿(ばえ)なす滿ち,萬の妖(わざわい)悉に發(おこ)りき」。

 いかにもおどろおどろしい世界になってしまったわけですな。

 日本書紀第7段本文は,こう。
 「故,六合(くに)の内常闇(とこやみ)にして,昼夜の相代も知らず」。

 東西南北+天地=六合が闇になったというだけ。あっさりしたもんです。

 ちなみに,第7段第1の一書は,こう。
 「是に,天下恒闇(とこやみ)にして,復昼夜の殊(わき)も無し」。
 ほとんど同じです。

 日本書紀第7段に対し,古事記は,アマテラスを特に称揚しようとしている。

 話は跳ぶが,アマテラスが天の石屋戸から出てきた場面,古事記はこうだ。
 「故,天照大御~出でましし時,高天の原も葦原中國も,自ら照り明りき」。


アマテラスは世界秩序になっている

 ここに,古事記の世界観が端的に表れている。

 アマテラスは,高天原だけでなく葦原中国をも照らし出す大御神なのだ。それを「叙述と文言」上,はっきりさせている。

 それだけでなく,この神がいなくなると,邪神が満ちて天災疫病などの災いがことごとく起きる。混乱をもたらす。

 古事記ライターはそう言っている。

 言ってみれば,アマテラスは世界秩序なのだ。単なる太陽ではないし,単なる光でもない。

 これがいなくなると,世界の秩序が乱れるという意味で,「昼夜の相代も知らず」どころの話じゃなくなるのだ。

 それが,古事記ライターの確信だ。


古事記の表現は大袈裟である(古来の伝承とは信じがたい)

 ただ,ほんのちょっと,意地悪を言わせてほしい。

 この表現は,前述したとおり,スサノヲが支配を放棄して,泣いてばかりいたところでも使われていた。

 「青山は枯山の如く泣き枯らし」たスサノヲにより,「惡しき~の音は,さ蝿如す皆滿ち,萬の物の妖(わざわひ)悉に發(おこ)りき」。

 アマテラスが隠れた場面の表現と読み比べてください。

 ほとんど同じですね。

 してみると,古事記におけるアマテラス礼賛の表現は,そんなにたいした表現でもないのかもしれない。
 単なる常套句であり,古事記ライターの確信とか,世界観とかを云々することさえ,意味のないことなのかもしれない。

 それは,「賢しら」な学者さんのやることなのかもしれない。

 スサノヲが世界秩序とまでは言えませんから,ま,こけおどしの表現と取っておいた方が良さそうです。


アマテラスが世界秩序なんて言い出すと神々の関係がわからなくなる

 アマテラスは,本当に世界秩序を体現する神なのか。それはちょっと,早とちりではないか。

 考えてもみてほしい。

 古事記冒頭は,タカミムスヒら3神と「高天原」で始まっていたではないか。それは,無前提の大前提の世界なのだった。それはどうなる。
 タカミムスヒの立場はどうなる。「責任者,出てこい」。

 タカミムスヒの「産霊の思想」が,古事記全体を貫く原理だという学者さんがいる。

 しかし,アマテラスが隠れると,なぜ「ここに萬の~の聲はさ蝿(ばえ)なす滿ち,萬の妖(わざわい)悉に發(おこ)りき」となっちゃうんだろうか。

 アマテラスは,「照らし出すこと」を職務としている神にすぎないのではないか。
 第5段本文は,生まれてきたアマテラスが,「此の子(みこ)光華明彩(ひかりうるわ)しくして,六合(くに)の内に照(て)り徹(とお)る。」と述べているだけだった。

 ひかり輝かしいから,天上へ送ったというだけだ。
 こっちのほうが,はるかに筋が通っている。

 古事記にはタカミムスヒが存在するから,アマテラスが隠れても,「昼夜の相代も知らず」となるだけであって,全体としての秩序は保たれるのじゃなかろうか。
 夜だけの世界にはなるが,パニックも起こらず,平穏に暮らせるんではないか。

 少々嫌味を言ったが,要するに古事記ライターが余計なことを言ったがために,タカミムスヒの存在と,(しかもスサノヲの「叙述」とも)整合性が取れなくなってしまったのだ。


全体の構想や仕組みや構造や体系など何も考えない古事記ライター

 このように,古事記ライターは,全体の構想や仕組みや構造や体系など,何も考えずに叙述している。

 そもそも,こうだった。

 いの一番にタカミムスヒら3神が「高天原」に生まれ,「別天つ神五柱」,「神世七代」を分類したくせに,「天つ神諸(もろもろ)」から修理固成の命令を受けたイザナキとイザナミが,国生みをするのだった。

 ところが,だらだらと「神生み」まで行い,なぜか「高天原」の支配者たるアマテラスまで生んでしまうおかしさ。論理矛盾。

 これを思い出してほしい。

 支配命令の体系を装っているだけで,じつはめちゃくちゃな命令体系なのだった。


「高天原」は合議体か

 こうした叙述を前提に,以下を読んでほしい。

 あわてた神々は,対策を練る。

 アマテラスが天の石屋戸に籠もってしまったときは,「八百萬(やおよろず)の神,天の安の河原に神集ひ集ひて,高御産巣日神の子思金神に思はしめて」。

 見事,アマテラスが天の石屋戸から出てきたとき,「八百萬の神共に議(はか)りて,スサノヲに千位(ちくら)の置戸(おきど)を負ほせ……神逐らひ逐らひき」。

 「神集ひ集ひて」というからには,「高天原」に集まった神々は,自発的に集まったのであって,タカミムスヒらの命令で集まったのではない。

 しかも,「八百萬の神共に議(はか)りて」だから,ここのところ,タカミムスヒらの命令とは無関係だ。


共和制を示す先進的な文献資料(びっくり)

 しかも,この場面では,アマテラスが天の石屋戸から出ているはずなのに,そんなのは,まるで無視。

 「高天原」に集まった神々は,あたかも合議体を形成するかのようだ。

 しかもその合議体。君主の命令で意見を形成し,その結果を君主に答申するだけの,単なる諮問機関ではない。
 また,君主が合議体の上に君臨して,その決定を裁可する(裁可しなければ通らない)のでもない。

 純粋に,合議体独自の判断が,何の掣肘も受けずに,国家の意思決定として通るようである。

 「世界秩序を体現する神」,アマテラスでさえ,無視されるのだから。

 これを共和制という。君主制ではない。
 きわめて民主的で,王を殺した,フランス革命のようだ。信じられないことだが。

 アマテラス神話,破れたり。
 アマテラスなんか,世界秩序でも何でもないぞ。天の石屋戸神話は天照大神を称揚したものだなんて,誰が言った?

 戦前の人たちは,よくもまあ平気で,共和制の原理を宣伝したものですねえ。


学者さんの高らかなるラッパの響きを笑う

 ひとつ言っておくと,天の石屋戸の意味を,アマテラスが試練を乗り越えて「再生するに至ったということである。」とし,「一つの宇宙的・社会的秩序が回復したということである。」とか,「この再生を通して天照大神は始めて名義どおり天照大神に,つまり高天の原の至上神になり,さらにいえば天空に輝く太陽神として誕生したのである。」と述べ,「こうなればもう,国譲りも天孫降臨もすでに指呼の間にあるということができる。」と結論づける学者さんがいる(西郷信綱・古事記注釈・第2巻・筑摩書房,171頁)。

 ちょっと,恥ずかしいのではなかろうか。

 確かに,こうした見解の亜流は,あらゆるところで見かける。「再生による至上神の確立」というヤツだ。

 でも,出てきてから至上神として振る舞っていないじゃありませんか。
 後述するとおり,出てくる経緯も,情けない限り。

 そんなことよりも,「こうなればもう,国譲りも天孫降臨もすでに指呼の間」なんて,息せき切って,言っちゃっていいのかなあ。

 後述するとおり,少なくとも日本書紀では,命令神はタカミムスヒだ。アマテラスが命令神となるのは,異伝中の異伝だ。

 冷静な日本書紀編纂者は,息せき切って「指呼の間」なんて,考えちゃいない。


オモイカネに対する学者さんの妙な思い入れ

 もうひとつ言っておくと,「高御産巣日神の子思金神」とあることから,タカミムスヒの命令が「うかがわれる」などと,いい加減なことを言う人がいるが,「叙述と文言」は,それを否定している。

 また,古事記の他の「叙述」では,オモイカネが「天照大神とタカミムスヒの諮問に応じるという形をとっている」ので,「彼はタカミムスヒの分身ないしは代理人であったらしいのだ。」と断定し,「タカミムスヒが背後に控えていることを示す。」などと,苦しい説明をする学者さんもいる(西郷信綱・古事記注釈・第2巻・筑摩書房,135頁)。

 「背後に控えている」という言い回しに,何とかタカミムスヒを参加させたいという,「学者さんの執念」を感じる。

 こうして学者さんは,「叙述と文言」を無視して,「新たなる神話」を創作していくのだ。

 古事記は,決して,体系的な書物ではない。
 その,あるがままを,誠実に読み取らねばならない。
 それが古事記を理解することであるし,日本神話を理解することである。

 この,単純なことが,どうしてわからないのであろうか。


アマテラスの立場がない

 少々おちょくりも入ったが,私が言っていることは,冗談ではない。

 アマテラスがいないから,八百萬の神が三々五々集まって,困った困ったと言いながら考えあぐんだんだって?
 そんな,「青人草(あおひとくさ)」(庶民)向けの,二番煎じのお話があったよなあ。

 だったら,天の石屋戸から出てきてから,最高神アマテラスが自らスサノヲを罰しないのはなぜなんだ。
 アマテラスは,なぜ怒らないのか。被害者本人ですよ。しかも,最高神なんでしょ?

 古事記の「叙述と文言」を,再度引いておこう。

 「ここに八百萬の~共に議(はか)りて,速須佐之男の命に千位(ちくら)の置戸(おきど)を負せ」。

 アマテラスがいるのに,無視して,「八百萬の~共に議(はか)りて」である。

 だから,アマテラスは,最高神でも何でもないのです。
 古事記もそれを認めているのです。

 ここらへん,はるか昔から,古事記に対する根本的な誤解があるようです。


アマテラスの立場に関する叙述が破綻している

 「叙述」を検討してみよう。

 アメノウズメ(天宇受賣命=あめのうずめのみこと)は,「汝(いまし)命に益(ま)して貴き神坐す」と嘘を述べて,アマテラスの気を引く。

 してみれば,「高天原」では,アマテラスが一番貴い神なのだ。
 少なくとも,古事記ライターはそう考えている。

 ところが,前述したとおり,アマテラスが天の石屋戸から出てくると,「八百萬の神共に議(はか)りて,スサノヲに千位(ちくら)の置戸(おきど)を負ほせ」なのだ。

 一番貴き神って,何が貴いんでしょうかねえ。
 その内容が伴っていない。
 古事記ライターは,アマテラスを,とにかく一番貴いと考えているようだが,自分でこの場面を書いていて,矛盾しているとは思わないのでしょうかねえ。


一番貴い神っていったい誰なのか

 もっとある。

 じゃあ,「別天つ神」はどうなった。
 アマテラスが天の石屋戸に籠もったのなら,「神世七代の神」はどうなった。
 修理固成の命令をした「天つ神諸(もろもろ)」はどうなった。

 貴い神は,他にもいっぱいいるぞ。

 古事記ライター自身が書いてたじゃないか。

 学者によれば,隠れるといっても,隠れないんじゃなかったか。

 ここまで言うと,くどいか?
 私には,古事記ライターの頭の中が,さっぱり理解できない。


アメノウズメに関する日本書紀と古事記のはまり具合

 アメノウズメが出てきたついでに,気がついたことがある。

 日本書紀第7段本文では,アメノウズメの滑稽なしぐさと踊りを見たアマテラスが,「云何(いかに)ぞ天鈿女命,如此(かく)樂(ゑら)くや」と思って,岩戸のドアを開けたのだった。

 アメノウズメは,何でこんなにも楽しそうなのかしら。アマテラスは,そう考えて,ちょっぴりドアを開けたのだった。

 で,古事記は,こうなっている。

 アメノウズメは言う。「汝命(いましみこと)に益(ま)して貴き神坐(いま)す。故,歡喜(よろこ)び咲(わら)ひ樂(あそ)ぶぞ。」

 この,笑えるような対応。びしっと決まっている。

 なぜアメノウズメが楽しそうなのか。古事記は,きちんと説明している。

 それだけでなく,日本書紀の「云何(いかに)ぞ天鈿女命,如此(かく)樂(ゑら)くや」という疑問に対する,古事記の,いかにも説明的な叙述。

 この,びしっと決まった対応を考えると,古事記という書物が,いかにも不思議な書物に思えてくる。

 古事記ライターは,日本書紀の神話を読んで,それから書いたに違いないのだ。


アマテラスを呼び出す祭祀

 さて,オモイカネが考えて行った,アマテラスをおびき出す祭祀は,以下のとおりだ。

@ 「常世の長鳴鳥」に鳴かせる。

A イシコリドメ(伊斯許理度賣命)に「鏡」を作らせる。

B タマノオヤ(玉祖命)に「八尺の勾玉の五百箇の御統の珠」を作らせる。

C アメノコヤネ(天児屋命)に占いをさせる。

D フトダマ(布刀玉命)に「太御幣(ふとみてぐら)」持たせる。

D アメノコヤネに「太詔戸言(ふとのりとごと)」を申させる。

E アメノウズメ(天宇受賣命)が「~懸り」して踊る。

F タヂカラノヲ(天手力男神)がアマテラスを引き出す。


海洋神アマテラスの原像と故郷

 まず,「常世の長鳴鳥」だ。

 ここに,海洋神アマテラスの原像と故郷が顔を出していることは,すでに述べた。

 長鳴鳥は長く鳴く鶏であり,夜が明けることを意味するというのが,学者さんの見解だ。
 しかし私は,「常世の」という点に注目する。常世の鳥でなければならなかったのだ。

 この「常世」は,「是の神風の伊勢国は,常世の浪(とこよのなみ)の重浪帰する(しきなみよする)国なり。傍国(かたくに)の可怜し国(うましくに)なり。是の国に居らむと欲ふ。」という,伊勢神宮の起源に関する有名な崇神天皇6年の叙述につながっていく。

 そこでは,「斎宮(いわいのみや)」は,五十鈴川の川上に建てられたにもかかわらず,「磯宮(いそのみや)」と呼ばれた(垂仁天皇25年3月)。

 さらに,榊に付けられた八坂瓊の五百箇の御統,八咫鏡。
 これは,海人につながっている(仲哀天皇8年正月)。

 そして,「幣(ぬさ)」。普通は,白和幣で足りるはずだ。現に,神主さんはそうしている。
 しかし,海洋神であるから,それでは足りない。
 青和幣と白和幣は,青い海水と白い波を象徴している。


海洋神アマテラス

 このように,アマテラスは海洋神である。

 しかも,瀬戸内海沿岸などの内海ではなく,広い外洋に面した地方でいつき祭られた海洋神なのだ。瀬戸内海に生きた海人では,はるか海の向こうの常世国など,考え及ばないだろう。

 私は,「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」が日本神話の故郷であると述べた。南九州の吾田が日本神話の故郷だと述べた。

 アマテラスの出生地もまたここにある。確かに,外洋に面した地域が,アマテラスの故郷なのだ。


「八尺の勾玉の五百箇の御統の珠」とはなんぞや

 次に,タマノオヤに作らせた,「八尺の勾玉の五百箇の御統の珠」。

 「八尺の勾玉」とは,大きな勾玉である。
 「五百箇の御統」とは,それをたくさん使って作った,首飾りである。
 最後にくっついた,「の珠」って,いったいなんでしょうかね。

 「八尺の勾玉の五百箇の御統」という首飾りに使う「珠」を1個作ったということでしょうか。

 なんか変だな。
 と思って日本書紀を見ると,日本書紀にはきちんと書いてあるんですね。

         (天の石屋戸)        (スサノヲとの誓約)

(古事記)  「八尺の勾玉の五百箇の御統の珠」    同左


(日本書紀) 「八坂瓊の五百箇の御統」        同左

 日本書紀(第7段本文)は,首飾りを作らせたとなっている。
 「スサノヲとの誓約」場面でも,首飾りをそのままスサノヲに渡したのだ。

 古事記は,あくまでも,珠1個を作らせたことになってしまう。
 すると古事記の「スサノヲとの誓約」の場面では,アマテラスが,わざわざ身につけていた首飾りを分解して,珠1個をスサノヲに渡したのだ。

 こうなってしまうのは,古事記ライターに責任がある。

 古事記ライターは,「御統」と「御統の珠」との区別がつかなかったのではなかろうか。


神が占いをするのはおかしい

 さてさて,アメノコヤネの占いだ。

 国生みの場面に引き続いて,古事記の神々は,ここでも占いをやっちゃう。鹿の肩の骨を焼いてと,具体的に書いてある。
 もちろん,日本書紀第7段本文にはない。

 改めて言うまでもないことだが,神意をうかがう占いなど,人間のやることだ。神が行うことではない。

 そして私の考えによると,神と人間との領域が曖昧になり,人間が神の領域を侵犯する伝承は,神話の崩壊過程にある,末期的症状を呈した神話だ。


神が祝詞を唱えるのはおかしい

 それは,まだいい方かもしれない。

 フトダマは御幣(みてぐら)を捧げ持ち,アメノコヤネは「太詔戸」すなわち祝詞を述べ,祈るのだ。

 榊を左右に振りながら祝詞を述べる。
 問題意識のない,ずれた「古事記読み」は,昔からこの場面を,面白おかしく語ろうとする。

 私は,別の意味で笑ってしまう。

 これは,人間である「神主」がやることだ。人間が神を祈るときの儀式だ。
 神が神を呼び出す儀式にしては,あまりにも世俗的で人間臭い。

 これもまた,人間と神の領域がなくなり,ごっちゃになっている。

 人間である「神主」が,祝詞をもにょもにょ述べながら榊を振り回す儀式が整ったのは,いつ頃なのだろうか。西暦何年ころだろうか。
 文学部の学者さんに聞いてみたい。


日本書紀はアメノコヤネが祝詞を述べたなんて言っていない

 そこで,まさか日本書紀にはこんな変なこと書いてないだろうなあ,と思って調べてみると,ほぼ,そのとおりなのである。

@ 第7段本文 「相与(あいとも)に致(のみ)其祈祷(いのりもう)す。」

A 第1の一書 「招祷(お)き奉らむ。」

B 第2の一書 「則ち以て~祝(かむほさ)き祝(ほさ)きき。」

C 第3の一書 「広く厚く稱辭(たたえごと)をへて祈(の)み啓(もう)さしむ。」

 ただ第3の一書には,アメノコヤネに「解除(はらえ)の太諄辭(ふとのりと)を掌りて宣らしめき」とある。スサノヲを追放する際の祓禊(はらえ)として出てくる。

 この第3の一書が,縄文神スサノヲが弥生神に変貌し,アマテラスの良田を妬むまで歪められた伝承であることは,後述する。

 とにかく,第7段第3の一書以外の日本書紀は,アメノコヤネが祝詞を奏したなんて,ひとことも言っていない。たんに,祈ったというだけだ。祝詞を用いた祈りは出てこない。


古事記をはずせば祝詞の成立はそうそう遡れない

 では,古事記が言及している祝詞っていったい何だ。いつできたのか。

 祝詞は,日本神話のあらゆるところで言及されるが,その内容が確認できるのは,927年の「延喜式」でしかない。
 日本書紀や古事記の時代から,200年以上も降った時代だ。

 それを,820年の「弘仁式」まで,100年もさかのぼらせるのは,学者さんの,単なる「推定」にすぎない。

 「祝詞」の文献的根拠は,あくまでも,日本書紀や古事記の時代から200年以上も降った,927年の「延喜式」である(弘文堂・神道事典,555頁)。

 日本書紀第7段第3の一書に,アメノコヤネ(天児屋命)が「太諄辭(ふとのりと)」を奏した旨の記載がある。

 しかし,その内容は不明だ。

 天智天皇9年3月に祝詞が出てくる。

 「山御井(やまのみゐ)の傍(ほとり)に,諸神の座(みまし)を敷きて,幣帛を班(あか)つ。中臣金連,祝詞を宣(の)る」。

 このころになると,祝詞の内容が整ってきたようだ。

 しかし,内容が確認できるのは,延喜式の祝詞(927年)になる。かなり時代が下る。ただ,弘仁式にも祝詞があったと「推定」すれば,820年となる。


古事記と祝詞との関係

 それくらいの根拠しかないのに,祝詞が古いというのは,古事記と第7段第3の一書が,アメノコヤネが「太詔戸」,「太諄辭」を奏したとしているからだ。

 だから,古事記や第7段第3の一書をはずすと,祝詞は,いったいどれだけ古いのかということになる。

 私のように,古事記の祝詞的表現は,祝詞が完成して,それを自由に操って「遊ぶ」ことができるようになってからの表現だと考えると,いよいよあやしくなってしまう。

 祝詞が意外に新しいとすると,そののちの成立であるはずの古事記は,いったいどうなるのか。


「大祓祝詞」と対照してスサノヲの乱暴をまとめる

 話は前後するが,ここで,スサノヲの乱暴を整理してみよう。

 「大祓祝詞」は,天津罪として,「畦放」,「溝埋」,「樋放」,「頻蒔」,「串刺」,「生剥」,「逆剥」,「屎戸」,の8罪をあげている。

 まとめると,以下のとおり。

     「畦放」「溝埋」「樋放」「頻蒔」「串刺」「生剥」「逆剥」「屎戸」

大祓祝詞   ○   ○   ○   ○   ○   ○   ○   ○

古事記    ○   ○                   ○   ○

日本書紀本文 ○           ○               ○

第1の一書                          ○

第2の一書  ○   ○               ○       ○

第3の一書  ○   ○   ○   ○   ○


祝詞の古さをどう考えるか

 要するに大祓祝詞は,日本書紀と古事記の総合版である。

 学者さんは,大祓祝詞にこう書いてあるから古いなどと言っているが,じつは,日本書紀や古事記を集大成したのが,大祓祝詞なのではないか。

 で,古事記をどう扱うかが問題となる。

 私は,祝詞の表現を多用した古事記は,祝詞が成立し,それが文学的表現として,遊びに使われるようになった時代の書物であると述べた。

 祝詞の成立と古事記の成立は,歴史学として論じられなければならない問題であると指摘した。


祝詞の古さは何によって証明されるのか

 祝詞の古さは,その内容を,各種の文献と比較対照するしかない。

 しかし,たとえば広瀬祭や竜田祭が天武天皇4年(675年)に出てくるからといって,その祝詞が,その頃すでに成立していたということはできない。

 とにかく,祝詞の文献的根拠は,日本書紀や古事記の成立よりも,200年以上も新しいのだ。

 これ以上は,「叙述と文言」を対象とする私の研究領域の範囲を越えるので立ち入らない。

 少なくとも,祝詞にこうあるから古いなどという考え方はできない。
 しかも,古事記や第7段第3の一書が意外に新しいとなると,祝詞の成立も,そう古いことではなくなる。


神であるアメノウズメが神懸かりして踊るおかしさ

 さて次は,アメノウズメ(天宇受賣命)による,「~懸り」の踊りだ。

 神が神懸かりして踊る。

 トートロジーというか,矛盾というか,これもまた同じことですね。
 神と人間の領域がごちゃごちゃになりつつある伝承。神話が腐って崩壊していくときの,末期的症状。

 ただ,この点は日本書紀第7段本文も同じだから,古事記だけを非難できない。

 もともと,天の石屋戸の場面は,神が神を祈るだとか,日本書紀も含めてかなり新しい伝承だ。

 日本神話の形成過程の中でとらえれば,アマテラスに対するスサノヲの反逆を描くことにより,天の下侵略の理由や口実を作りだすための,「壮大なる血の交代劇」の一貫として,ヤマトにおいて再構成された際の神話だから,新しいのは当然である。


あまりにも情けないアマテラス

 アマテラスは石屋戸から出て来た。

 そこに至るまでのアマテラスの描写は,とんでもなく情けない。

@ 世の中は真っ暗になったはずなのに,なぜみんな楽しくやっているのかな。

A 自分が最高だと思っていたら,じつは「汝命に益して貴き神」がいるのね。おかしいわ。絶対。

B ちょっと,外の様子をのぞいてみようかな。

C そしたら,力自慢のタヂカラヲ(天手力男神)が,アマテラスの手を取って引き出してしまった。

 まったく,女性の心理を突いた描写だと思いませんか。
 最高神アマテラスなんて,笑っちゃう。

 アマテラスにもいろいろな側面があると言って,得々と説明する人がいるが,これでは人格分裂だ。
 私には,単なる,ちゃらんぽらんな叙述にしか見えない。

 以上の点は,スサノヲ神話の本質に関連して,すでに述べた。


現実の宮廷祭祀を書いてしまった古事記ライター

 さて,古事記の天の石屋戸場面を振り返ってみよう

 イシコリドメは鏡を作り,タマノオヤは勾玉を作り,アメノコヤネは占いをして祝詞を奏し,フトダマは御幣を整え,アメノウズメは神懸かりして踊る。

 神がやるはずのないことをやっている。
 そして,神式の分担が明確だ。

 それどころか,祝詞を奏するなど,かなり儀式化したことも平気で出てくる。

 これは,古来の神話伝承ではなく,古事記成立時に行われていた現実の宮廷祭祀を,神話的脚色の下に語った作り話ではなかろうか。

 先ほど述べたように,日本神話の形成過程の中でとらえれば,アマテラスに対するスサノヲの反逆を描くことにより,天の下侵略の理由や口実を作りだすための,「壮大なる血の交代劇」の一貫として,ヤマトにおいて再構成された際の神話だから,新しいのは当然である。

 ただ,古事記はさらにこと細かだ。

 それだけでなく,大嘗祭が出てくる。祝詞も出てくる。


学者さんの誤解

 「高天の原の秩序が天孫降臨とともに地上にそっくり将来されることである。」と言う学者さんがいる(西郷信綱・古事記注釈・第4巻・筑摩書房,26頁)。

 しかしそれは逆である。

 古事記ライターは,地上で現に行われている秩序を,そっくりそのまま,「高天原」に将来したのだ。

 だから,「王権的秩序の神話的根源は高天の原にあった。」(西郷信綱・古事記注釈・第4巻・筑摩書房,26頁)というのも,少々不正確である。

 現に行われている王権的秩序を,「高天原」に持ち込んで,装飾したにすぎないのだ。


天の石屋戸神話の意味・日蝕神話説について

 最後に,天の石屋戸神話の意味を考えておこう。

 日本神話の体系からは,「壮大なる血の交代劇」の中で,国譲りという名の侵略の理由と口実を用意する段だと言える。
 これについては,何度も述べてきた。

 それにしても,そのためになぜ天の石屋戸という,太陽神の岩窟ごもりのお話が選ばれたのか。

 天の石屋戸神話の意味については,「日蝕神話」という説がある。

 私の立場からすれば,別に,それでもよい。太陽が隠れる日蝕神話があった。それに,五穀と養蚕に反逆するスサノヲを結びつけ,日本神話として成立させた。

 これはこれで,筋はとおる。

 ただ,昔からの日蝕神話説は,そんな日本神話の体系的意味など考えずに,日蝕神話にこんなのがあったという事実に飛びついて,「あてはめてみました」というだけのことであるから,学問でも何でもない。

 日本神話の「ここ」に,日蝕神話が反映しているというだけのことであり,それは学問でも何でもない。それ以上,何も考えていないからだ。知識をあてはめてみましたというだけのことだからだ。

 「日蝕説はあまりにも無邪気にノン・ポリだという気がする。世界のあちこちに似た話があるにしても,それをたんに素材の次元で横に並べるだけではらちはあかない。」というのは(西郷信綱・古事記注釈・第2巻・筑摩書房,169頁),そんなことを言っているはずである。


天の石屋戸神話の意味・鎮魂祭説について

 次に,「鎮魂祭」を述べたのだという説。
 これもよくある説だ。

 収穫の秋を過ぎると,太陽は急激に衰える。日の光が衰え切ったところが,冬至だ。その太陽の「御魂振り」をして,来年も頑張ってもらわなければならぬ。

 「鎮魂」は,単なるレクイエムではなく,「たまふり」という意味が本義だ。衰えた「魂」を振って,奮い立たせ,元気をつけるのだ。

 アメノウズメが,性器もあらわに踊って,アマテラスを元気づけたのは,この「たまふり」である。

 太陽神アマテラスの天の石屋戸隠れと,そこからの出現は,こうした鎮魂祭を反映しているというのだ。

 私は,別に,これでもいいと思う。
 というより,こっちの方が,古事記の「叙述と文言」には合うだろう。

 ただ,この説も,「あてはめてみました」という感を免れない。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 「初版」 はこちら



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