日本書紀を読んで古事記神話を笑う

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 改訂新版

2009年10月5日up
(物語読者として日本神話を解明する)


第31 誓約による神々の生成(日本書紀)


アマテラスはスサノヲと対峙する

 さて,古事記の物語に戻ろう。

 根の堅州国に祓われたスサノヲは,アマテラスに会おうと,天に上ってくる。
 しかしアマテラスは,山川国土を揺り動かしてやって来るスサノヲに,邪心があるのではないか,「我が国を奪はむと欲ふにこそあれ。」と疑う。

 そこで,男装して,重武装をしてスサノヲに対峙し,身の潔白を証明するよう,要求する。

 スサノヲは,「各誓(うけ)ひて子生まむ」と提案する。

 この内容は,日本書紀第6段本文と,ほぼ同じだ。
 ここで,「誓ひ」が出てきた。日本書紀では「誓約」だ。

 「誓約」に関する古事記の「叙述」が,いかによたっているか。

 それを知るためには,何よりもまず日本書紀の「叙述」を把握しておかなければならない。
 日本書紀と古事記を,対等な書物として,机の上に並べて読み比べてみるというのも駄目だ。必ず混乱して,わけがわからぬまま終わる。


日本書紀における誓約

 せっかく古事記に戻ってきたが,ここはしばらく,日本書紀の世界に行ってみよう。

 日本書紀第6段本文はこうだ。

 スサノヲは「高天原」に上る。
 その様子が,海はとどろき山が吠えるような凄さだったので,アマテラスは,完全武装してこれを迎える。
 そして,スサノヲの潔白を証明するため,誓約(うけい)を行う。

 ここでの誓約は,男が生まれれば「赤心(きよきこころ)」,女が生まれれば「黒心(きたなきこころ)」と予め決めておき,どっちが生まれるか見て,勝負を決めるのだ。


日本書紀における誓約により生まれてきた神々

 その結果,アマテラスは,スサノヲの十握剣(とつかのつるぎ,握り拳10個分の長さのある剣)から,

タゴリヒメ(田心姫=たごりひめ),
タギツヒメ(湍津姫=たぎつひめ),
イチキシマヒメ(市杵嶋姫=いちきしまひめ)の,
いわゆる宗像三神を生む。

 これに対してスサノヲは,アマテラスの八坂瓊の五百箇の御統(やさかにのいおつのみすまる,アマテラスが身につけていたアクセサリー)から,

アメノオシホミミ(正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊),
アメノホヒ(天穂日命),
アマツヒコネ(天津彦根命=あまつひこねのみこと),
イクツヒコネ(活津彦根命=いくつひこねのみこと),
クマノノクスビノミコト,
を生む。

 男神を生んだスサノヲが勝ったのだ。


日本書紀で語られる「誓約による神々の生成」は象徴的で流麗で美しい

 この神々生成の場面は,完全武装して雄叫びを上げるアマテラスの場面と共に,私の好きな場面だ。

 アマテラスは,スサノヲの十握剣を受けとり,
「打ち折りて三段(みきだ)に為して,天真名井(あまのまない)に濯ぎて(ふりすすぎて),さがみに咀嚼(か)みて,吹き棄つる気噴の狭霧(ふきうつるいぶきのさぎり)に生まるる神を」,という神生みにつながっていく。

 イメージの連鎖と言葉の連鎖。

 そこには,清冽なリズムがある。流麗なリズムがある。しかも神話的なリズムであり,何度読んでも飽きない。


動的でありながら象徴的

 天真名井は天の泉。

 水は生命の源泉であり,三段になした十握剣を水につけて振りすすぐことは,魂を振りたてる「魂振り(たまふり)」の儀式に通じる。
 それをカリカリと噛む。
 そうして吐く息や霧は,これまた生命の象徴であり,まさしく息吹である。

 この息吹の中から,神々が生まれてくるのだ。

 言葉のリズムと,イメージのリズム。これほどよくできた文章は,そうそうない。

 動的でありながら象徴的。

 息吹で思い出すのは,ウフィッツィ美術館にあるプリマベーラだが,そんなものは比較にならないほど美しい。これほどイマジネーション豊かな息吹はない。

 一度でいいいから,古事記の,生命感を抜かれてスカスカになった叙述と比べてみてほしい。

 古事記が文学的だなんていう観念が,あっという間に吹き飛ぶ。


本来の誓約ではない(アマテラスが神を生む必要はない)

 それはまあ,いい。私の趣味の問題かもしれない。

 ともかく,まず,わけのわからないことがある。

 この誓約はスサノヲの心を試すものだから,アマテラスが神々を生む必要はない。スサノヲが生んだ神が男か女か,それを見ればよいはずだ。

 アマテラスが神を生もうと生むまいと,その神が男であろうと女であろうと,スサノヲの「赤心(きよきこころ)」の証明には,何の関係もないじゃないか。

 そもそも,誓約とは,2人でやるものじゃなかった。

 日本書紀には,いろいろな誓約が出てくる。

 戦いの結果を占おうとする神武天皇が,土器を川へ投げ入れて,魚が浮かんだら戦いに勝ち,浮かばなかったら負ける,という誓約を行っている(神武天皇即位前紀戊午年9月)。

 県守は,大蛇を退治しようとして瓢(ひさご)を川に投げ入れ,沈めば自分が去るが,浮けば大蛇を殺そうと述べる(仁徳天皇67年是歳)。

 日本書紀には,その他たくさんの誓約が出てくる。
 皆,これと同様,単純だ。
 下駄をとばして,表なら晴れ,裏なら雨,というのも一種の誓約なのだ。

 日本書紀が伝える誓約は,本来,ナンセンスで単純なのだ。2人でやるものじゃない。


本来の誓約ではない(スサノヲが複数の神を生む必要はない)

 しかも,スサノヲが複数の神を生む必要さえない。
 スサノヲが1人で,1人の神を生めばよいはずだ。

 土器を川に投げ入れて浮くか沈むか。下駄を投げて表か裏か。それが誓約だ。
 スサノヲが最初に生んだ神が男か女かを見れば,それですむはずだ。

 複数の神を生んでもらっちゃあ,むしろ困る。男ばかりだったらよいが,男と女だったらどうするの。男,女,男と3人生まれてきたら,いったいどうするんだ。

 要するに,誓約とは,丁か半かというくらい単純なものだし,そうでなければ誓約にならないのだ。


「誓約による神々の生成」場面における「誓約」の特殊性

 ところが,ここでの誓約は,

@ なぜかアマテラスも神を生んでいる,

A しかも双方が複数の神を生んでいる,

という点で,極めて特殊というか,「贅肉がだぶだぶ」ついているのだ。

 だから,ここで語られている「誓約」は,もはや,本来の,古い伝承としての誓約ではない。

 誓約の意味が,明らかに変質している。と言うより,いわゆる「誓約」ではなくなっている。伝承した者たちが,これを称して「誓約」と主張しているだけだ。

 それを,はっきりと頭の中に刻みつけておいてください。

 「誓約」それ自体を考えるよりも,「だぶだぶの贅肉」の意味を考えることこそが,「誓約による神々の生成」場面を読み切る課題となるのだ。

 誓約にしてはおかしいなあと,漠然と思っている限り,日本神話の世界を1歩も進めないのである。


誓約を考えるにあたっての本質的な問題

 なぜ,こんな「だぶだぶの贅肉」をつけたのだろうか。

@ 2神がそれぞれ,しかも複数の神々を生んでもらわないと困る事情があったはずだ。

A となると,生まれた子がどんな役割を果たすのかを,きちんと考えなければならない。

B 誓約という形を借りて,アマテラスまでもが子を生んで,それぞれの子を交換するという点に,重要な意味があったはずだ。

C となると,交換された子は,交換前の血統とどのような関係に立つのか。これを,きちんと考えなければならない。

 以上を,とくと肝に銘じてほしい。


遘合(みとのまぐわい)が神々の生成原理だったはずだ

 神生みといえば,遘合(みとのまぐわい)だったはずだ。

 陰陽二元論をとる日本書紀の原則は,遘合(みとのまぐわい)だった。
 イザナキという男神と,イザナミという女神の交合による神生みだったはずだ。

 これが,世界生成の原理なのだった。

 対立する2つが,新しいものを生み出すという思想。
 それは,男と女がいないと人類は滅びるという,素朴かつ本質的な確信から始まって,右と左,天と地,有と無という世界哲学まで高められたのだった。

 決して,幼稚な思想ではない。

 現代でも,人間の身体や顔はなぜ左右対称なのか,なぜゾンビのような不定型な身体をしていないのか,というところから始まって,物質と反物質という議論まであるとおり,対概念(ついがいねん)につながるのだ。

 決して,トライアングルではない。

 それはともかく,イザナキとイザナミは,遘合によって国生みと神生みを行った。だから,この誓約の場面で,突然,遘合で神々を生成しないのは,どう見てもおかしい。確実に変だ。

 原理原則を放棄した理由があるはずだ。


遘合(みとのまぐわい)が描かれていないが生殖行為である

 日本書紀の「叙述」を分析してみよう。

 アマテラスは,スサノヲが所持していた十握剣を「物根(ものざね)」として,水にすすいで,噛んで,息を吹きかけて神々を生んだ。

 スサノヲも同様だった。スサノヲは,アマテラスから八坂瓊の五百箇の御統(やさかにのいおつのみすまる)を受け取り,まったく同様にして神々を生成した。

 これは,生命の基礎である卵子に,精を吹き込んで誕生させたということではないだろうか。
 生命の水にすすいで揺り動かして,魂を奮い立たせ,さらに生命の息吹を吹きかけるのだから。

 雌が生んだ卵に精子をかけている雄の鮭と言ったら,興醒めだろうか。

 とにかく,この描写の基本は,やはり生殖行為であり,遘合なのだ。それに,神話的,言語的脚色を加えているにすぎない。

 この描写の実質は,それぞれの所持品,すなわち身体の一部を「物根(ものざね)」とした,すなわち種とした,生殖行為なのだ。


大神スサノヲと大神アマテラスが生殖行為をするという「とんでもなさ」

 では,なぜこんな脚色を加えたのだろうか。

 アマテラスとスサノヲとが兄弟であり,近親相姦になってしまうので場面をぼかしたのだろうか。
 でも,そもそもなぜ兄弟なのか。
 でも,その前に,なぜ,こんな生殖活動を行わなければならなかったのだろうか。

 疑問は尽きない。これを整理して論ずるのが,大変でさえある。

 いや,考えてみると,スサノヲもアマテラス(本来は日の神)も,人々がいつき祭る大神だ。
 出雲の大神と,ヤマトにおける大神。

 この,いわば出雲とヤマトのボス同士が,生殖行為をするなんて,よく考えてみると,とてつもない事件である。


ヨーロッパの神と比べてみるとよくわかる

 これが,人間的で性欲丸出しで,恬として恥じるところのないギリシャ・ローマの神々なら,よくわかる。
 いくらでもある事件だと言えよう。

 塔に閉じこめられたダナエは,安全だったろうか? 黄金の雨に身を変えたユピテルに,まんまと,ものにされてしまったではないか。

 雨が女に降り注ぎ,神が合体するという,妖艶,淫靡な展開。これがヨーロッパ人だ。こんなことを,ギリシャ・ローマの時代からやっていたわけだ。

 これは,わかりやすくいえば,単なる「野合」である。それを,神話に登場する神々が,率先してやっていたというわけだ。

 ヨーロッパの神話や美術には,「野合」を上品に表現しているだけという側面がある。彼の地の美術館に行っても,そんなのばかり見せられて,辟易するという面がある。

 日本の神々は,「遘合(みとのまぐわい)」を隠そうとはしないが,こうした「上品な野合」を拒否している。男の雨が女に降り注ぐなどという,手の込んだポルノグラフィーは,ありえない。

 ちょっと話がそれまくっているが,とにかく,「大神」同士が「性交」するなんて信じられないのが,日本の風土です。

 だから,「誓約」の場面は,よくよく考えなければならないのだ。


日の神はヤマトに入ってスサノヲと出会う

 なぜ,大神同士の生殖行為を描かざるをえなかったのか。これは,古来の伝承なのであろうか。

 結論だけを先に言ってしまおう。先に述べた,「日本神話の体系的理解」を思い出してほしい。

 出雲国は,ヤマトを含む大八洲国全体を支配した,宗教的権威の中心だった。古事記は,オオクニヌシの王朝物語を残している。

 その主は,スサノヲでありオオクニヌシだ。

 一方,天地創成神話,イザナキ・イザナミ神話,日向神話,日の神神話,タカミムスヒ神話など,日本神話の原型を背負った神武天皇が,南九州の吾田から「東征」し,ヤマトにやってきた(もちろん,神話のうえでのお話です)。

 そしてヤマトにおいて,偉大なる出雲神話と出会った。


出雲の神々を神話の表舞台から退場させる根拠(正当性の契機)

 そうなると,出雲を中心として,ヤマトを含む大八洲国を支配した神々を,神話の表舞台から退場させなければならない。

 そのためには,スサノヲの血を受け,しかもアマテラスの血をも受けた神々を登場させて,その子孫が,それまで葦原中国を支配してきた出雲の神々になり代わって,新たに支配するとすればよいわけだ。

 これが,「正当性の契機」である。国譲りという名の侵略を正当化する理由である。

 こうして,「神武東征」以後,ヤマトにおいて,出雲神話が取り込まれた。出雲の神スサノヲとともに子を作るのは日の神だが,アマテラスが選ばれた。

 これが,ヤマトにおける「日本神話の再構成」である。


日本神話の体系的理解と正当性の契機

 スサノヲは,元来,縄文の神であった。日本書紀の異伝には,大八洲国に木種を広めたスサノヲと,その子の伝承が豊富に残っている(日本書紀第5段第11の一書を中心に後述する)。

 五穀と養蚕を創始し,天上界で田を作っていたアマテラス。その弥生文化に反逆する神,縄文の神であった。

 だからスサノヲは,根国に祓われる。

 新たなる侵略者,新たなる神々により,旧来の神スサノヲが祓われたのであれば,真っ直ぐ根国に行けばよい。
 しかし,スサノヲは,「日本神話の再構成」,「壮大なる血の交代劇」で,利用されているにすぎない。

 だから,根国に行く前に天に上って,天照大神と誓約をして,アマテラスのみならず,スサノヲの血をもひいた子孫を残す。

 アメノオシホミミ(正哉吾勝勝速日天忍穂耳命)。

 この神の子が,天孫ニニギだ。


スサノヲが天に寄り道して出雲に降っていく理由

 こうして,「日本神話の再構成」,「壮大なる血の交代劇」に一役買ったスサノヲは,やっと,出雲に降る。故郷に帰っていく。

 本来は出雲の神だから,出雲に降るのは当然だ。スサノヲは,出雲で,国の基礎を作る。

 本当は,「日本神話の再構成」どころか,「神武東征」や,もしかしたら南九州吾田での「イザナキ・イザナミ神話」よりはるか前に終わっている仕事かもしれないが,「日本神話の再構成」により,「国譲りという名の侵略」の前にはめ込まれた。

 「日本神話の再構成」のなかで,天上の神々に祓われて,誓約を行ってから出雲に降ったとされたのだ。

 こうしてスサノヲは,天上界だけでなく,地上にも子孫を残して,祓われた神が行く世界,根国へ行く。
 晴れて,日本神話の表舞台から退場するのだ。

 根国行きを命じられたスサノヲは,なぜ真っ直ぐ根国へ行かないのか。なぜ天に寄り道をして,さらに出雲に寄り道するのか。そうした疑問がある。

 天への寄り道は,「正当性の契機」作出のために利用されただけ。出雲への寄り道は,建国神話がここにはめ込まれただけ。

 私は,以上のように理解している。


「壮大なる血の交替劇」が日本神話の本質

 スサノヲの子孫オオナムチ(オオクニヌシ)は,出雲を中心にして大八洲国を作る。大八洲国を作ったのはオオナムチだ。
 古事記はそれを,「始めて國を作りたまひき」と讃えている。また,歌物語をも交えた,オオクニヌシの王朝物語として,その伝承を残した(後述する)。

 しかし,スサノヲの血を受け,誓約によって生まれた,オオナムチとは別系統のスサノヲの子孫,天孫ニニギが,そのオオナムチに成り代わって,葦原中国の支配者となる。

 まず最初に派遣されるのは,アメノホヒ。アメノオシホミミの次に生まれた子だ(第6段本文)。
 そして,アメノオシホミミの子,天孫ニニギが降臨する。

 こうした,「壮大なる血の交替劇」が,「日本神話の本質」なのである。

 要するに,スサノヲが出雲に残したオオナムチとは,別系統の子,アマテラスとの間の子が,じつは天上界にいた,という構成になっているのだ。


遘合(みとのまぐわい)を描写しなかった理由

 以上が,スサノヲとアマテラスが,生殖行為をしなければならなかった理由だ。

 では,なぜ,「生殖まがいの行為」になったのか。

 日本の伝統では,大神同士が生殖行為を行うなんて,到底できなかったであろう。と言うより,大神をいつき祭る人々にとって,そんなことは,受け入れられなかったに違いない。

 真正面から,遘合(みとのまぐわい)を描写することはできない。スサノヲとアマテラスは,原始的なイザナキとイザナミとは違う。

 神々の立場が違う。神をいつき祭る人々が違う。

 スサノヲも日の神(アマテラス)も,それぞれ,相容れない人々がいつき祭っている大神である。遘合では,道徳的反感を買ってしまう。それぞれの神をいつき祭っている人たちを冒涜することになる。

 だから,「誓約」というからくりを採用した。お互いの「物根」を卵子に見立て,それに「精」を吹き込むという,あくまでも「単性生殖」という形をとったのだ。


スサノヲとアマテラスはなぜ兄弟なのか

 以上が,「誓約による神々の生成」場面の,「本質的意味」であり,「体系的意味」である。

 さて,これに関連して,スサノヲとアマテラスはなぜ兄弟なのかという問題を考えておこう。

 そもそも,スサノヲとアマテラスは対等でなければならない。
 いや,ヤマト侵入後の「日本神話の再構成」の場面では,むしろ,出雲神話の方が強かったことだろう。

 考えてみると,神武天皇もその後の天皇も,出雲の神々につながったにすぎない。天皇の祖神とされる神武天皇自身が,実際には,オオナムチの系譜に絡んでいる。決して,オオナムチの敵ではない。

 神武天皇は,事代主神の娘姫蹈鞴五十鈴姫命を「正妃」とする(神武天皇即位前紀庚申8月)。
 一方,神武天皇の系図上,吾田関係の血筋は見事に途絶えることになっている。

 吾田は忘れ去られる。
 いや,もしかして,忘れ去りたい出自だったのかもしれない。残ったのは,出雲の神,事代主神の娘との系譜だけだ。

 そして,神武天皇以下懿徳天皇までは,すべて事代主神の血をひいた女を皇后にしているのだ(以上,「三輪山のオオナムチ」で詳細に述べる)。

 こんな神話しか残せない,「社会的政治的事実」が,神話の基礎としてあったはずだ。

 「日本神話の再構成」のなかで,スサノヲとアマテラスは対等でなければならない。
 だから,兄弟として扱うしかない。ただ,出来の悪い弟として貶められたのである。


誓約の場面の本質的問題を再確認する

 初めに自己提起した問題は,以下のとおりだった。

 なぜ,こんな「だぶだぶの贅肉」をつけたのだろうか。

@ 2神がそれぞれ,しかも複数の神々を生んでもらわないと困る事情があったはずだ。

A となると,生まれた子がどんな役割を果たすのかを,きちんと考えなければならない。

B 誓約という形を借りて,アマテラスまでもが子を生んで,それぞれの子を交換するという点に,重要な意味があったはずだ。

C となると,交換された子は,交換前の血統とどのような関係に立つのか。これを,きちんと考えなければならない。

 大筋は解明できたと思う。
 順序が逆になったかもしれないが,以下,誓約の場面を詳しく検討してみよう。


生まれてきた神々(再掲)

 アマテラスは,スサノヲの十握剣から,

タゴリヒメ(田心姫=たごりひめ),
タギツヒメ(湍津姫=たぎつひめ),
イチキシマヒメ(市杵嶋姫=いちきしまひめ)の,いわゆる宗像3神を生む。

 これに対してスサノヲは,アマテラスの八坂瓊の五百箇の御統(やさかにのいおつのみすまる)から,

アメノオシホミミ(正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊),
アメノホヒ(天穂日命),
アマツヒコネ(天津彦根命=あまつひこねのみこと),
イクツヒコネ(活津彦根命=いくつひこねのみこと)
クマノノクスビノミコト,を生む。

 スサノヲが勝ったのだから,その最初の子供に,「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」,まさに私が勝ったという名前を付けたのだ。

 これを,よく覚えておく必要がある。


アメノオシホミミの父親はスサノヲである

 きちんと筋をつけて考えて,ぶれないようにしよう。

 日本書紀第6段本文の「叙述と文言」からすれば,アマテラスの子は3女神であり,スサノヲの子は5男神だ。これが原則だ。

 同じく単性生殖に,イザナキによる「禊ぎ」があった。禊ぎによって生まれたアマテラスの父は,イザナキである。これと同じである。
 これに,「物根」の交換が付け加わっただけである。

 本質は生殖だが,単性生殖を装っているのだ。
 単性生殖に,「物根」の交換という,いわばマジックが付け加わっていると言ってもよい。

 だから,アメノオシホミミの父親は,スサノヲなのである。
 スサノヲが見事5男神を生んで勝ったから,アメノオシホミミは,「正哉吾勝勝速日」という称号を戴いているのだ。


第6段の一書からも明白である

 これがぶれるから,わけがわからなくなる。
 これをひっくり返して,「正哉吾勝勝速日」は,スサノヲの勝ちを表現したのではないという学者さんさえいる。

 しかし,第6段第1の一書は,「正哉吾勝勝速日」アメノオシホミミを生んだので,「素戔鳴尊,既に勝つ験(しるし)を得つ。」とある。

 第6段第3の一書では,男の子を生んだスサノヲが,「正哉(まさか)吾勝ちぬ。」と宣言し,「勝速日天忍穂耳尊」と名付けたとある。
 この皇子の名前は,スサノヲの子であることを誇らしく表示しているのだ。

 日本書紀の「叙述と文言」からすれば,スサノヲが男の子を生んだから勝ったのだ。
 そして物語は,ここで一段落する。

 だから,アメノオシホミミ(正哉吾勝勝速日天忍穂耳命)は,スサノヲの子供なのである。スサノヲの子孫なのだ。


男の子を生んで勝ったという「事実」をひっくり返すことはできない

 「叙述と文言」をきちんと検討しない人たちは,漠然と,アメノオシホミミはアマテラスの子であり,ニニギが孫だと考えている。

 その理由は,アマテラスが,このあと,「物根」を理由にその男神を取り上げてしまうからだ。だから,スサノヲが生んだのは,結局,女の子ではなかったかと錯覚してしまうのだ。

 その場面の解釈と意味は,次に述べる。

 私が言いたいのは,その場面に惑わされて,スサノヲが男神を生んで勝ったという物語をひっくり返さないでほしいということだ。

 日本書紀の「叙述と文言」は,ひっくり返しようがないほど明白なのである。

 また,「叙述と文言」を持ち出さなくても,私は,容易に反論できる。

 第9段本文は,以下のようにして始まっている。
 「天照大神の子正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊,高皇産霊尊の女(みむすめ)栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)を娶き(まき)たまひて,天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を生(あ)れます」。

 この第9段本文を読めば,天孫ニニギには父母がいることがわかる。じゃあ,アメノオシホミミの父母はいったい誰なのだろうか。

 あたりまえ。父はスサノヲだ。母はアマテラスだ。

 学者さんも含めて,おおかたの人々は,スサノヲがアメノオシホミミの父であることを忘れているのだ。


アマテラスはスサノヲの子アメノオシホミミたちを取り上げる

 天孫ニニギの父親となるアメノオシホミミは,「一応」単性生殖で生まれてきたのであり,その父親は,スサノヲだった。

 ところが叙述はねじれる。日本書紀の神話の体系を語るうえでの,重大なねじれと言ってよいだろう。

 アマテラスは言う。

 「其の物根(ものざね)を原(たづ)ぬれば,八坂瓊の五百箇の御統(やさかにのいおつのみすまる)は,是吾(あ)が物なり。故(かれ),彼の(その)五の(いつはしらの)男神は,悉に(ふつくに)是吾が児なり」。

 そして,スサノヲからこの5男神を取り上げて,「乃ち(すなわち)取りて,子養したまふ(ひだしたまう)。」となってしまう。

 すなわち,5男神が生じた「物根」,すなわち種は,自分が持っていた御統(みすまる)だから,全部自分のものだと言って,スサノヲから取り上げて養育したというのだ。

 そして,自分が生んだ3女神も,同様の理屈で,スサノヲに与えてしまった。


アマテラスがスサノヲの子アメノオシホミミたちを取り上げた理由

 これは,神々の入れ替えである。交換である。
 スサノヲが父であるのに,横槍を入れて,スサノヲから取り上げて育てたというのだ。

 まるで,離婚調停で父親が親権者と決まったのに,無理矢理取り上げて育てたというようなものだ。

 ここで大事なことは,「子養したまふ(ひだしたまう)」というだけであり,「自分の子にした」のではない点だ。

 アマテラスは,なぜ5男神を取り上げたのだろうか。
 スサノヲの血を引いている男の子が欲しかったという以外,考えられない。

 これが,前述した「正当性の契機」だ。

 スサノヲの血を引き,スサノヲの勝利を誇らしげに名前にするアメノオシホミミが,のちの天孫ニニギの父となり,天の下支配につながっていく。

 スサノヲは男神を生んで誓約に勝った。たいていの学者さんや研究者は,誓約に勝ったか負けたかという点だけを議論している。

 しかし,この場面の本質からはずれた議論だ。

 先に述べたとおり,誓約が問題になってはいるが,それは神話伝承者によって利用されているだけである。

 むしろ,誓約を利用した神々の生成と,アマテラスが男神を取り上げてしまうところに,「誓約の本質」があるのだ。


誓約によるアメノオシホミミ生成の意味・国譲りという名の侵略と天孫降臨の「正当性の契機」

 アマテラスによって取り上げられた神々は,いったいいかなる働きをするのだろうか。

 スサノヲは,この後,暴虐を働いて「高天原」を追放され,出雲に降る。そこで国の基礎を作る。そのスサノヲの子孫が,オオナムチ(オオクニヌシ)だ。国譲りという名の侵略は,ここを狙って行われるのだ。

 真っ先に派遣されたのは,5男神の1人,アメノホヒだった。
 そして,国譲りという名の侵略と天孫降臨は,アメノオシホミミの子,すなわち天孫ニニギが行う。

 これらの神々は,スサノヲを祖とする,天つ神である。
 いわば,スサノヲが天上界においてきた天つ神である。
 スサノヲが天の下でつくったオオナムチらとは,異母兄弟の系譜である。

 すなわち,出雲建国の祖,スサノヲから分かれた異母兄弟の神が,出雲を再支配するのだ。

 これが,国譲りという名の侵略を正当化するのだ。私はこれを,「正当性の契機」と呼んだ。


偉大なるオオナムチを襲って支配者となる

 ここで,オオナムチ(オオクニヌシ)の偉大さに,ちょっと触れておこう。
 詳しいことは,「偉大なるオオナムチ」,「オオクニヌシの王朝物語」として,後述する。

 天の下を造ったのは,オオナムチ(オオクニヌシ)だ。単に出雲国だけを造ったのではない。

 オオナムチは,出雲国をスサノヲから引き継いだだけでなく,天の下を神武天皇以前に支配した大神だ。
 いや,神武天皇は,大和地方をやっと支配しただけだった。これに対しオオナムチは,大八洲国全体を支配していた。

 日本書紀第8段第6の一書に,その根拠がある。

 スクナヒコナ(すくなひこなのみこと)と力を合わせ,「経営天の下(あめのしたをつくる)」と叙述されている。出雲国を作ったのではない。

 スクナヒコナが常世郷(とこよのくに)に去ったあと,オオナムチは,国を巡って「成らざるところ」を完成させる。そして,「遂に出雲国に到りて」,「葦原中国」は荒れていたが自分が平定したので帰順しない者はもはやいないと,言あげする。

 「今此の国を理むるは(おさむるは),唯し(ただし)吾一身(われひとり)のみなり。其れ吾と共に天の下を理む(おさむ)べき者,蓋し有りや」。

 この日本書紀の叙述からすれば,出雲は,国を平定して最後にやってきた1つの国にすぎない。

 東征を果たした神武天皇は,山に登り,国見をして四囲が青垣に囲まれた大和盆地を称え,狭いけれど交尾をしている蜻蛉(あきづ)のようだと称える(神武紀31年4月)。

 日本書紀編纂者は,これにより「秋津洲」の名が起こったとする。そしてそれに並べて,次の事実を紹介している。

 イザナキは「浦安の国(うらやすのくに)」,「細戈の千足る国(くわしほこのちだるくに)」,「磯輪上の秀真国(しわかみのほつまくに)」と呼び,
大己貴大神は「玉牆の内つ国(たまがきのうちつくに)」と呼び,
饒速日命は「虚空見つ日本の国」と呼んだと。

 神武天皇以前に,大神,オオナムチがヤマトを支配していたのだ。

 スサノヲを祖としたオオナムチが,天の下の支配者だった。
 この偉大な支配者に成り代わる理由,「正当性の契機」が必要だった。

 それは,他でもない。天の下を新たに支配するのは,やはりスサノヲを祖とし,その血を引いた,天孫ニニギであるということなのだ。


誓約による宗像3神生成の意味

 さて,アマテラスが生んだ3女神,いわゆる宗像3神はどうなったのだろうか。

 これを明らかにしたのが,異伝である第6段第1の一書だ。

 日の神(のちのアマテラス)は,この宗像3神を「筑紫洲(つくしのくに)」に天下らせて,「道の中に降り居して(くだりまして),天孫を助け奉りて,天孫のために祭られよ。」と命令した。

 日の神は,すでに九州のどこかにいる。そこに天孫がやってくる。そこで,娘を「筑紫洲」に降らせて,天孫を迎えようという設定だ。

 第6段第3の一書はこうだ。

 「葦原中国の宇佐嶋(うさのしま)」に天下らせ,それは「今(日本書紀編纂当時をいう),海の北の道」の中にあるという。
 これを名付けて「道主貴(ちぬしのむち)」という。道中の神という意味だ。

 宗像3神は,もとは,宇佐にあったというのだ。

 しかも宗像3神は,本文も第1及び第3の一書も,スサノヲの剣から生じたとしている。
 これが,天孫の行く道を守る。
 剣は,ツクヨミがウケモチノカミを撃ち殺した武器だ(第5段第11の一書)。
 そして今,剣から生じた3女神が,降臨しようとする天孫を守る。

 日本書紀が語る剣のイメージは,強烈だ。


天孫は朝鮮からやって来た

 要するに,日本書紀の異伝である一書は,天孫が,筑紫洲の宇佐を通ってやって来たとしている。
 宗像3神は,朝鮮から天孫がやってくる道中の,露払いの役割を与えられている。

 この「天孫を助け奉りて,天孫のために祭られよ」という天孫は,「日向の襲の高千穂峯」(日本書紀第9段本文)とか,「筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」(古事記)に天降った天孫としか考えられない。

 それ以外に,天孫はいない。

 私は,いわゆる天孫降臨の事実的根拠が,日本書紀の一書に語られていると考えている。

 天孫は,朝鮮からやって来たのだ。

 それを正直に告白している。

 またスサノヲは,この後出雲に降って,出雲国を創建する。そのスサノヲの愛娘たちが宗像3神だ。

 朝鮮から日本にやってくるには,対馬,壱岐を伝って北九州へ来て,そこから敦賀,能登半島,新潟に至るルートがあった。当時は,北九州に至ってから沿岸沿いに航海したか,あるいは出雲あたりに直行して,そこから本州を北上した。

 いずれにせよ,必ず出雲を通る。

 スサノヲは,朝鮮からやって来た,朝鮮の神だったのではないのか。だから,その愛娘たちが,朝鮮からやって来る天孫を迎えたのではないのか。

 この点については,後述する。


第6段第1の一書も第3の一書も古い日神神話

 この,天孫が朝鮮からやって来たとする伝承は,いわゆるアマテラス神話より古い。

 第6段第1の一書も,第3の一書も,アマテラス神話ではなく,「日神」神話だ。登場するのは,「日神」である。

 私は,日本書紀第5段本文で生まれたのが「大日霎貴」という「日の神」であり,「天照大神」ではなかった点を指摘した際,ヤマトにおける「日本神話の再構成」,「壮大なる血の交代劇」の過程で,「日の神」が「天照大神」に置き換えられていったと論じた(「生まれたのは日の神であってアマテラスではない」)。

 「日神」神話と「天照大神」神話が入り乱れているのは,そうした理由からである。

 だから,第6段第1の一書も,第3の一書も,アマテラスへの変換前の,古い伝承である。これは,日本神話を読み取るうえで,尊重しなければならない。


「宇佐嶋」という第6段第3の一書の感覚は古い

 それが証拠に,第6段第1の一書は,「高天原」という「文言」を使っていない。「我が天原(あまのはら)」である。

 第6段第3の一書も,「天原」である。

 また,第6段第3の一書が,宇佐という北九州東部の地域を,「島」と「叙述」している点に注意してほしい。

 もちろん宇佐は,島ではない。筑紫洲という大きな島の一部にすぎない。国東半島という,大きな半島の根っこに位置する。

 しかし,「国生み」の,「生まれてきた国々を分析する」部分で述べたことを思い出してほしい。

 陸地に定着した弥生時代以前,すなわち,縄文文化華やかなりし頃の海人=海洋民=海洋漁労民は,点々とある港や潟に寄港していくだけだ。勇躍外洋に出るのは危険だから,近海を航海して,点々とある港をめぐっていく。

 だから,海人=海洋民は,港とその周辺しか知らない。上陸して,陸地を移動しようとしないし,そもそも,その地理的状況に関心がない。

 海をぐるっと回りこむように,点々と港があれば,とりあえず島に見えるし,島と考えるだろう。
 その根っこが切れていて海峡があるのか,じつは陸続きなのかは,自分が生きている海の世界とは違う,別世界のことだから,どうでもいいことだ。

 だから,今の地理的知見によれば半島なのに,「越洲」などという。

 「宇佐嶋」も,これと同じだ。

 だから,「宇佐嶋」という感覚の第6段第3の一書は,決して軽視してはならない伝承である。

 


トップページ( まえがき)

第1 私の立場と問題意識

第2 問題提起

第3 方法論の問題

第4 世界観と世界の生成

第5 神は死なない(神というもののあり方)

第6 原初神と生成神の誕生

第7 日本書紀における原初神と生成神の誕生

第8 修理固成の命令

第9 言葉に対して無神経な古事記(本当に古い文献か)

第10 古事記は伊勢神宮成立後の文献

第10の2 応神記の気比の大神について

第11 国生み叙述の根本的問題

第12 日本神話の読み方を考える(第1子は生み損ないか)

第13 生まれてきた国々を分析する

第14 国生みのあとの神生み

第15 火の神カグツチ「殺し」

第16 黄泉国巡り

第17 コトドワタシと黄泉国再説

第18 禊ぎによる神生みの問題点

第19 日本神話の故郷を探る

第20 大道芸人の紙芝居としての古事記

第21 アマテラスら3神の生成

第22 分治の命令

第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)

第24 日本神話の構造と形成過程

第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない

第26 日の神の接ぎ木構造

第27 最高神?アマテラスの伝承が変容する

第28 泣くスサノヲとイザナキの肩書き

第29 日本神話学の見通しと方法論

第30 日本神話のコスモロジー

第31 誓約による神々の生成(日本書紀)

第32 誓約による神々の生成(古事記)

第33 天の岩屋戸神話と出雲神話が挿入された理由

第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語
(日本書紀第5段第11の一書を中心に)


第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ
(日本書紀を中心に)


第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)

第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係

第38 五穀と養蚕の文化に対する反逆とオオゲツヒメ

第39 スサノヲの乱暴

第40 「祭る神が祭られる神になった」という幻想

第41 天の石屋戸と祝詞

第42 スサノヲの追放とその論理(日本書紀を中心に)

第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)

第44 出雲のスサノヲ

第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)

第46 スサノヲにおける縄文と弥生の交錯(大年神の系譜)

第47 別の顔をもつスサノヲ(日本書紀を中心に)

第48 オオクニヌシの試練物語のへんてこりん

第49 オオクニヌシの王朝物語

第50 日本書紀第8段第6の一書の構成意図と古事記の悪意

第51 スクナヒコナと神功皇后と応神天皇と朝鮮

第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)

第53 三輪山のオオナムチ(日本書紀第8段第6の一書から)

第54 古事記はどうなっているか

第55 偉大なるオオクニヌシ(オオナムチ)の正体(問題提起)

第56 偉大なるオオクニヌシの正体(崇神天皇5年以降)

第57 崇神天皇5年以降を読み解く

第58 国譲りという名の侵略を考える前提問題

第59 「皇祖」「皇孫」を奪い取る「皇祖神」タカミムスヒ
(国譲りという名の侵略の命令者)


第60 皇祖神タカミムスヒの根拠
(国譲りという名の侵略の命令者)


第61 古事記における命令神
(国譲りという名の侵略の命令者)


第62 第9段第1の一書という異伝中の異伝と古事記

第63 武神の派遣と失敗と「高木神」

第64 タケミカヅチの派遣(タケミカヅチはカグツチの子)

第65 フツヌシとタケミカヅチの異同

第66 コトシロヌシは託宣の神ではないしタケミナカタは漫画

第67 「オオクニヌシの国譲り」の叙述がない

第68 天孫降臨の叙述の構造

第69 サルタヒコの登場

第70 古事記独特の三種の神宝

第71 天孫はどこに降臨したのか

第72 「国まぎ」を切り捨てた古事記のへんてこりん
(天孫降臨のその他の問題点)


第73 国譲り伝承と天孫降臨伝承との間にある断層

第74 じつは侘しい天孫降臨と田舎の土豪神武天皇

第75 天孫土着の物語

第76 火明命とニギハヤヒ(第9段の異伝を検討する)

第77 日向神話の体系的理解

第78 騎馬民族はやって来たか

第79 三種の宝物再論

第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)

第81 海幸彦・山幸彦の物語を検討する

第82 「居場所」のない古事記

第83 本居宣長について

第84 日本神話を論ずる際のルール

第85 神々の黄昏

あとがき

著作権の問題など

付録・初版の「結論とあとがき」


新論文
神功紀を読み解く
神功皇后のごり押しクーデター

日本書紀を読んで古事記神話を笑う 「初版」 はこちら



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